第四章 旅立ちの朝
ビルの階段を、一段ずつ下りる。
夜明け前の静けさが、コンクリートに冷たく響く。
あやのの足取りは軽くはなかったが、迷いはなかった。
扉を閉めた屋上の奥には、まだ司郎がいた。
見送る姿をあやのは振り返らなかった。
振り返れば、泣いてしまうと思ったから。
階下のロビーに差し掛かると、すでに忍犬・幸が座って待っていた。
澄んだ瞳であやのを見上げ、静かに尻尾を一度だけ振る。
「行こう、幸」
あやのが声をかけると、幸は立ち上がり、あやのの隣に寄り添うように並んで歩き出す。
まだ空は群青のまま。
街は目覚めず、世界はあやのたちの旅立ちをそっと許してくれているようだった。
ビルの玄関を出ると、冷たい朝風が頬を撫でた。
あやのは無意識に、指輪に触れる。
温かな重みが、左手の薬指にしっかりと宿っている。
「梶くん、待っててね」
その一言は小さく、けれど風のなかに確かに残った。
タクシーに乗り込み、振り返ったビルのレンガ壁にはまだ夜が貼りついているようだった。
いつも誰かがいて、笑っていて、料理の匂いがして、司郎の叱声が響く「家」。
それを今、後にする。
別れは、あたたかいままがいい。
涙も、優しさも、ちゃんと心に持ったまま、次の場所へ。
──遠野の里で、待っている人がいる。
祝言の準備も、未来のための覚悟も。
あの人なら、もうすべて整えてしまっている気がする。
あやのはふと笑った。
まだ涙の跡が頬に残っていたけれど、その笑顔はもう前を向いていた。
物語の季節が、そっと次のページをめくろうとしていた。




