第三章 夜明け前の別れ
真夜中の「出るビル」は、まるで眠っているように静かだった。
昼間の喧噪は跡形もなく、時計の針の音すら聞こえない。
ただ、東京の夜風だけが高層の間を縫い、ビルの屋上へと吹き抜けていく。
あやのが静かに扉を押し開けたとき──
そこにいたのは、すでにすべてを知っている人だった。
司郎は背中を向けていた。
夜の街に向けたその姿は、まるで長く旅を続けてきた誰かのように見えた。
やがて、あやのの足音が近づくと、彼はゆっくりと振り返る。
「……指輪、似合ってるわよ」
そう言って、ふっと口元に微笑を浮かべた。
その笑みは穏やかだった。だが、それがどこか寂しげに見えたのは、照明のせいだけではなかった。
「親不孝者ねぇ」
司郎はあやのの手をとって、そっとその指輪を確かめるように見つめる。
「晴れ姿を、あたしに見せるつもりはないの?」
言葉は冗談めいていたが、その瞳には深い慈しみと、隠しきれぬ切なさがあった。
あやのは、何も言えなかった。
ただ小さく唇を震わせ、潤んだ目を伏せる。
司郎は、何も言わずにその頭をぽんと撫でた。
あやのの髪は相変わらず、ふわふわとしていて、頼りないくらい軽かった。
「……ごめんね」
あやのがぽつりと呟いた。
その声は、夜風のなかでもはっきりと届いた。
「行かなくちゃ、ならないの……」
その言葉と同時に、あやのは堪えきれず、司郎の胸にしがみついた。
細い腕に、これまでの歳月が詰まっていた。
司郎に抱かれて過ごした夜。怒られた朝。笑った昼。
すべてが、この一瞬にあふれ出す。
「うん、分かってるわよ」
司郎はそう言いながら、あやのを強く抱き締めた。
手のひらが背中を何度も撫でる。その仕草は、ずっと昔──まだ幼かったあやのをあやすようだった。
「あなたは……」
あやのはしゃくり上げながら言葉を紡いだ。
「……誰よりも、私の理解者で……お父さんだった」
「ありがとう」
その言葉に、司郎の肩が一瞬だけ震えた。
そして、ぽたりと、彼の頬から涙が落ちた。
泣かないはずだった。
見送る側は、笑っていなければならないと思っていた。
けれど、あやのの言葉が胸の奥深くを突き刺し、抑えていたものが崩れた。
「馬鹿娘」
司郎はそれだけ言って、また背を叩いた。
「行きなさい。あんたの道を行きなさい。……大丈夫、きっとまた会えるわ」
その声は優しくて、少しだけ震えていて、でもどこまでも強かった。
まるで──祈りにも似た、願いを込めた祝福のようだった。
あやのは頷いた。
涙の中でも、しっかりと、頷いた。
それは別れではなく、未来への約束だった。




