第二章 別れの覚悟と信じる者
魔界へ行くこと──
それは、ただ“場所”を移すだけの話ではなかった。
誰かと生きるとは、誰かと別れることでもある。
それはあやのにも、梶原にも、痛いほどわかっていた。
縁側に佇んでいたあやのが、ふいに立ち上がる。
風がそっと、彼女の髪を揺らした。月明かりに淡く透ける真珠色が、夜の帳に溶けていく。
その横顔には、決意の色があった。
もう迷わない。
愛する人と行くと決めたその道を、堂々と、誇り高く選び取るために。
「司郎さんと話すわ」
そう言ったあやのの声は、震えていなかった。
けれど胸の内には、静かな波が寄せていた。
話すべきことがある。
けじめをつけねばならない相手がいる。
彼女にとって司郎は、ただの師匠ではない。
心の一部だった。
家族でもなく、恋人でもなく、それでいてどんな言葉より深く彼女を知る人。
後ろで立ち上がる気配。梶原が少し首をかしげるようにして訊いた。
「……俺も行こうか?」
声には心配が滲んでいた。
あやのを独りで行かせたくない。
言葉にはせずとも、胸の奥に浮かぶのは──
“司郎という男とお前を、ふたりきりにしていいのか”という、ささやかな不安。
だが、あやのは迷わず首を振った。
真っ直ぐに、そしてやわらかに。
「2人きりがいい。……私じゃなきゃ、かけてあげられない言葉があるの」
その一言には、あやののすべてがこもっていた。
尊敬と、感謝と、別れの覚悟。
それは梶原に向けたものではなく、司郎への、真木あやのとしての最後の敬意だった。
梶原は、ふっと息を吐いた。
無理に笑おうとして、少しだけ口元をゆがめる。
そして静かに、言った。
「……ならば、俺はお前を信じて待つ」
その言葉が、夜の空気を切り裂くように静かだった。
声に出すことで、はじめて気づく。
どこか、ほんの少し──心の奥が、きしむ音を立てていた。
「遠野の里の、あの家で。……お前が初めて、俺を受け入れてくれた場所で」
最後の言葉に、梶原の目がすこしだけ伏せられた。
見えない寂しさが、そこに滲んでいた。
けれど彼は、それをあやのに悟らせまいと、肩をまっすぐに張った。
あやのは、そっとその手に触れた。
言葉ではなく、沈黙で「ありがとう」と伝えるように。
夜はまだ続いていた。
けれどふたりの間には、もう夜明けの光が、静かに射し始めていた。




