第二十四章 おじさん幽霊と、真珠色の夜
秋の風が、出るビルのテラスをやさしく撫でていた。
夜八時、仕事を終えたあやのは一人、屋上の木のベンチに腰掛けていた。
手には湯気の立つマグカップ。中身は、白桃のハーブティー。
この場所は、あやののお気に入りだ。空が近くて、星の声が聴こえる気がする。
「……お、いたいた」
階段の踊り場から、ぬっと姿を現したのは山形さん。
いつものチェックのシャツにジーパン姿、何十年も時が止まったような出で立ちだが、顔にはどこか寂しげな笑みが浮かんでいた。
「……こんばんは、山形さん。風、気持ちいいよ」
「だな。今夜は冷えすぎなくて、ありがたい。……おまえさん、よくここにいるな」
あやのは、ふふと笑った。
「ここ、空が広いから。世界がまだ、ちゃんとあるって気がするの。見えるでしょ、あの光」
彼女が指差した先には、小さく瞬く飛行機の尾灯。
「……東京って、眠らないんだね」
山形はあやのの隣に腰を下ろした。もちろん、ベンチに座ったのは“気分”だけだが。
「なあ、あやの。おまえさん、怖くないのか? 俺みたいなヤツと、よく喋れるな」
あやのはマグを両手で抱えたまま、そっと山形を見た。
「……山形さん、あったかいよ。目にね、悲しみがある。でも、それって、優しかった証拠なんじゃない?」
山形は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「……そんなふうに言われたの、初めてだな」
彼はふっと目を細めた。
遠い記憶が蘇ったのか、静かに語り出した。
「俺はな、娘がいたんだ。小さいころに病気でな……何もしてやれなかった。仕事にかまけて、気づいたときには……もう、遅かった」
夜風が、一度だけ強く吹いて、あやのの髪を揺らした。
「……山形さん、それでも娘さん、きっと知ってたと思うよ。お父さん、ずっとそばにいたかったんだって」
「そう思うか?」
「うん。だって……ここにいるじゃない。今も、誰かのそばにいたいって思ってる」
山形の肩が、すこし震えたように見えた。
だがそれは、泣いたわけじゃない。彼はただ、深く、長く息を吐いただけだ。
「……変わった子だな、おまえさんは。生きてるのに、心はもう、こっち側に触れてる」
「ううん、私は“真ん中”にいたいだけ。どっちの声も、ちゃんと聴いていたいの」
「……そうか。なら、頼りにしてるぜ、あやの」
彼の声が、風に乗ってやさしくほどけた。
その晩、出るビルのエレベーターはきしまず、階段の踊り場も静かだった。
翌朝、ベンチの上には、古びたキーホルダーが一つ置かれていた。
色あせたプラスチックの中に、小さな女の子の写真。
あやのはそっとそれを手に取り、微笑んだ。
「……かわいい子」
きっとそれは、山形さんがやっと渡せた、“忘れもの”だったのだろう。