新章 魔界編 第一章 これからのこと
風が、木々のあいだをゆるやかに渡っていく。
妖怪の里の夜は、あまりに静かで、まるでこの世界そのものが、二人のために耳を澄ませているようだった。
灯籠の明かりがぽつり、ぽつりと遠ざかり、縁側に残された光は淡い。
その淡さに溶け込むように、あやのと梶原は、並んで座っていた。
あやのは膝の上で手を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
夜気が肌を撫で、白い指がふと動く。呼吸は落ち着いているけれど、胸の奥では、何かがゆっくり形になろうとしている。
やがて、彼女は視線を前に向けたまま、静かに口を開いた。
「……これからの話をしよう」
その言葉は、まるで何かを包む布のようだった。優しくて、決して逃げないという決意があった。
梶原は少し肩を揺らして頷くと、ゆっくりと彼女の方へ身体を向ける。
薄暗い中で彼の表情ははっきりとは見えない。
けれど、迷いのない気配が伝わってきた。
「祝言をあげよう」
その言葉は、あまりにまっすぐだった。
「お前を、魔界に連れていきたい」
その一言には、重たく深いものが込められていた。
独り占めしたいという想い──それを抑えようとして、なお滲み出てしまった独占欲。
けれどそれ以上に、何があっても隣にいてほしいという切実さが、言葉の底に揺れていた。
あやのは、静かに目を見開く。
梶原の声は震えていなかったけれど、その誠実さが彼女の胸の奥を、じんわりと温かくした。
それでも、あやのはすぐには返事をしなかった。
受け取るには大きすぎるその言葉を、ひとつひとつ咀嚼するように、口の中で転がしてから、ぽつりと問い返す。
「……魔界って、どんなところ?」
さりげなく聞こえる問いの裏に、あやのは自分でも気づかないほど微かな緊張を込めていた。
行くと言ったら、ほんとうに連れて行かれるのだ。
冗談で言っているのではない。梶原の真剣さが、それを伝えていた。
梶原は、少し顔をしかめた。
まるで答えることそのものに、何か心の重荷があるようだった。
「……俺は、現魔王と仲が悪い」
真顔で発せられたその一言に、あやのはつい吹き出した。
喉の奥でこらえきれなかった笑いが、風とともに夜に紛れていく。
「ぷっ……え? ちょっと待って。そこから?」
けれど、笑われても梶原の表情は微塵も崩れない。
その頑ななまでの真剣さに、逆にあやのの胸がきゅっと締めつけられた。
彼は、ずっと真面目に──自分のことを、未来のことを、考えてくれていたのだ。
「……本当なんだ」
梶原は視線を前に向ける。
「俺はかつて、魔界の将だった。だが、政のやり方で王と対立して、反目した。今でも顔を合わせれば、斬り合いになると思う」
「……それで、私を連れて行こうとしてるんだ」
「お前となら、生き抜ける。……俺には、それだけの価値があると思ってる」
あやのは黙ってその言葉を受け取った。
重たくもあったが、不思議と苦しくはなかった。
むしろ、どこかで温かくて、胸の奥がじんわりと満たされていくようだった。
「魔界は……広い。自然の力が強いから、森や谷も、まるで生きてるみたいだ。風が話す。星が動く。けど、静かなんだ。音のない空気がずっと続く」
「……それ、ちょっといいかも」
あやのが目を細めた。
梶原は少しだけ顔を緩めた。
「ただ、争いも多い。規律が強く、異端には厳しい。でも、お前なら……尊重される。いや、きっと、崇められる」
「それはちょっと困るな」
あやのは口元をゆるめながら、ぽつりと言った。
「普通に隣にいさせてくれれば、それでいいんだけどな」
その一言が、梶原の胸を深く打った。
あやのは続ける。
「……でも、私も筋を通さなきゃね」
声が少し、低くなる。
「祝言、受け取るよ。梶くんとなら、どこへでも行ける。たとえそこが……魔界でも」
瞳が、闇のなかでまっすぐ梶原を見つめていた。
その目に、迷いはなかった。
愛しさと、信頼と、未来を見つめる覚悟が、そこにあった。
梶原は胸の奥に何かがこみあげるのを感じた。
それは涙ではない。けれど、今ここに命を賭けても悔いはないと思えるような、誇らしさだった。
「……ただし」
あやのはいたずらっぽく微笑んだ。
「現魔王との関係は、私がうまくやるから」
梶原は、唖然として──次の瞬間、苦笑ともつかぬ顔で唇を結んだ。
「頼もしいな、お前は……」
夜の森が、風とともに揺れた。
その揺れさえも、まるでふたりを祝福するようだった。




