特別編:「ただ、手を繋ぐために」
夜の森。
里の小道を抜けた先の、ひと気のない縁側に、あやのと梶原は肩を並べて座っていた。
虫の声、木々のざわめき、遠くの焚き火──
それらを聞きながら、ふたりは言葉少なに過ごしていた。
あやのの横顔を見つめた後、梶原がぽつりと口を開く。
「……昔、“将軍”と呼ばれていた。
魔界鬼族の前線を統べる者として、俺は……無数の命を奪った」
あやのが、そっと彼の横顔を見る。
「それは誇りでもあり、呪いでもあった。
命令一つで百を動かし、戦を終わらせるためなら、民すら見捨てた」
「“国を守る”と名乗っていたが、
あの頃の俺にとって、守るとは、“奪わせないこと”だった。
……何も、与えてはいなかった」
梶原の手が、わずかに震えていた。
あやのは、ただ黙って、その手に自分の手を重ねた。
「……ある日、戦の最中に、“歌”を聞いた」
「歌?」
「いや、正確には“声”だ。
まだ言葉にもならない──でも、どこか懐かしくて、
身体の奥の奥に、響いてきた。そのとき、俺は思った。“ああ、これは……生きるための声だ”と」
梶原は、小さく息をついた。
「その声をたどって、俺は“門”を越えた。
異界を渡って、人の里に出た。
そこで、初めて──お前を見た」
「目を合わせたとき、お前は何も言わなかった。
ただ、俺のことを……怖がらなかった」
「“護られる”とか“使える”とか、そういう目じゃなかった。“いてもいい”って目をしていた」
あやのは微笑む。
「……だって、寂しそうな顔してたもん」
梶原が、ふっと笑う。
「お前のそばにいたくて、名を捨てた。
将軍でも、鬼族でもない。
ただの“梶原國護”として、生きてみようと思った」
「それでも、たまに思う。
こんな俺が、お前のそばにいていいのかって」
あやのはそっと、梶原の手を握ったまま言った。
「じゃあ、こうしよう。わたしが“いっしょにいてほしい”って、何度でも言う。何度も、何度も、あなたに言い続ける。そしたら、もう悩まないでしょ?」
梶原の瞳に、ほんのわずかに涙が滲む。
あやのは言葉を続ける。
「あなたの手は、誰かを斬るためのものじゃない。
もう、わたしの手を繋ぐためにあるんだよ」
そして──
風が吹いた。
花の残り香を連れて、森の奥からひとしずくの夜露が落ちる。
ふたりは寄り添ったまま、
ただ、静かに座っていた。
かつての将軍と、あるがままの声をもつ少女。
過去を越え、ただ“今”を抱きしめるように。




