特別編:「ぬらりひょん、語る」
焚き火が小さくはぜる夜。
妖怪の里の古い囲炉裏端。
そこに集ったのは、里の者たちと──あやのと梶原。
あやのは少しだけ離れた場所に座り、静かに耳を傾けていた。
そして、話し手は一人。
白髪に煙管、ぬらりひょんの爺が、ぽつりぽつりと話し始めた。
「赤子が来た夜のことよ」
「……あれはな、おまえがまだ声も出せぬ赤子だった頃じゃ。季節はずれの雪の晩──道なき山に、ひとつの“足跡”が現れた」
「あの足跡は、獣のものでもなく、人のものでもない。けれど確かに、春の匂いがした」
「足跡の主は“お正月様”──」
里の者たちがざわつく。
「……神さま、だろ?」
「お正月様って、夢の話じゃ……」
「いや、あれはな、“夢”と“時間”の合間を歩く者。古よりの神にして、忘れられたひとはしら。歳神にして、時神じゃ」
ぬらりひょんは、煙をゆっくりと吐きながら続ける。
「その夜、わしは見た。
“獣の影”が狂い桜の前に立っておった。
風もないのに、桜が舞ってな……その中に──一つの包みが、静かに置かれていた」
「包みの中におったのが……あやのじゃ」
あやのがそっと目を伏せる。
ぬらりひょんは、遠くを見ながら、忘れぬように言葉を紡ぐ。
「お正月様は、何も語らなかった。
ただ一言だけ、桜の木の幹に刻んで消えた」
“──あるがままに、あれ。”
「それがすべてじゃ。名も告げず、去っていったその神の背を、わしらはただ黙って見送った」
「おまえは、不思議な子じゃった」
「泣かぬ。笑わぬ。声もない。けれど、風や鳥や草の声を聞いているような子じゃった」
「おまえの目を、里の者は皆おそれた。
人の理も、妖の理も……超えとったからの」
「──けれど、わしは捨てんかった。
神が託したのなら、それは“命の形”じゃ。何より……わしは、おまえの手のあたたかさを知っていた」
梶原があやのを見る。
彼女は、じっと炎を見つめていた。
その横顔は、大人のようでも、まだどこか幼いままでもあった。
「なあ、あやの」
ぬらりひょんが、ぽつりと言う。
「わしは、鬼でも狐でもない。ただのずる賢い年寄りじゃ。でもな──おまえが旅に出る朝、ひとりで味噌汁を飲んでいたわしの前に、おまえがそっと置いた弁当箱、忘れんぞ」
「おまえの“母親”は、誰でもない。
お正月様じゃない。人間でもない」
「けれど、“父親みたいなもの”なら、なれたかもしれんと、今でも思うんじゃ」
あやのの目に、初めて小さな涙が浮かぶ。
それでも彼女は、黙ってぬらりひょんの言葉を待つ。
「──わしはな、あの神が言った“あるがままにあれ”って言葉、ずっと考えてきた」
「おまえが泣くときも、笑うときも、愛されるときも、きっとそのすべてが、“あるがまま”なんじゃろう」
梶原が、そっとあやのの手を握った。
ぬらりひょんは、最後にこう言った。
「……あやの。どこへ行っても、どれほど“人”になろうとも──
おまえが“ただいま”と言えば、この里は、いつでも“おかえり”と言う」
「その時には、また弁当を置いていけ。
そしたら、わしがちゃんと、全部食ってやるからの」
囲炉裏の火が、少しだけ赤くなった。
それは神の話であり、家族の話であり、
ひとりの少女の、もう戻らない日々への答えだった。
あやのの旅はまだ終わらない。
でも彼女の足元には、確かに“はじまり”の土があった。




