番外編:「夜更けの図面とハミングと」
真夜中の出るビル。
ほとんどの灯りは落ちていて、静けさだけが残る。
でも、1階奥の設計室だけはまだ明るかった。
図面台に向かう司郎。
手にはペン、横には湯気の出る味噌汁のカップ。
──その背後から、そっと足音が近づく。
「……司郎さん、まだ寝てないんですか?」
真木あやのだった。
彼女はパジャマの上にカーディガンを羽織り、素足のまま廊下を歩いてきたようだった。
司郎は振り返らずに、言った。
「ん〜〜、あと少しなのよ。ほら、この軒天、音が溜まらないように逃げ道つくってるんだけど──納まりが……むぐぐ……って感じなのよ」
あやのは、くすっと笑って彼の隣に腰掛けた。
「……“むぐぐ”って、久しぶりに聞きました」
「アンタ、昔は毎日聞いてたでしょ」
「うん。だから、懐かしいです」
◆ 無言の時間
2人はしばらく、言葉を交わさずに図面を見ていた。
夜の空気。
少し冷たいけれど、心地よい沈黙。
「ねえ、司郎さん」
「ん?」
「わたし、ちょっとずつ……変わってきましたよね」
司郎は手を止めて、ちらりと彼女を見た。
真珠色の髪。
肩をすべるように垂れる細い毛先。
ほんのり紅くなった頬。
その変化は、誰よりも近くで見ていた。
「……そうね。
アンタ、前はもうちょっとトゲトゲしてたのに。
最近じゃ、“可愛い”とか言われても怒らないじゃないのよ」
「怒ってますよ、ちゃんと心の中で」
「嘘おっしゃい」
あやのは、うつむいて小さく笑った。
「……こわいんです。
こんなふうに“女の子”になっていくことが。
いろんな人に見られるのも、誰かに好きになられるのも……なんだか、わたしじゃなくなっていくみたいで」
司郎は、湯気の立つ味噌汁をひと口すすった。
そしてぽつりと、こう言った。
「──でもアンタは、“自分で選んで”変わってるでしょ」
あやのが顔を上げる。
司郎は、机に肘をつきながら続けた。
「誰かに命令されたわけでもない。誰かの理想に無理して合わせたわけでもない。
自分でちゃんと、“この道を歩く”って決めて、
自分でハミングして、
自分で笑ってるじゃないの」
「……はい」
「だったら大丈夫よ。あたしは、そういう子を、“誇りに思う”ってだけよ」
◆ 静かな約束
少し、沈黙。
そのあとで、あやのがそっと尋ねる。
「……司郎さん。わたし、また遠くに行くかもしれません」
司郎は、図面をそっと閉じた。
「……そうなると思ってたわよ。アンタの目は、まだ“帰ってきてない”もの」
「でも、わたし……出るビルのこと、大好きです。司郎さんのことも」
司郎は少しだけ笑って、椅子に背を預けた。
「バカ言うんじゃないの。
アンタはあたしの“助手”よ。いつ戻ってこようと、席は空けとくわよ。
ほら、ここ。アシスタント席──
今夜もあたし、そこに味噌汁もう一杯置いてたもん」
あやのは、そのカップをそっと手に取って、
ふふ、と笑った。
「……司郎さん、やっぱり、お父さんみたい」
司郎は、照れ隠しのようにむくれて言った。
「誰がお父さんよ!言ったわよね!?アタシは“おかま”でも“父親”でもない!
でも──そうね、“家族”くらいには……なっちゃってるわね」
◆ そしてまた、図面の夜
あやのは味噌汁をすすりながら、
その隣で、ほんの少しハミングを口ずさむ。
それは、
彼女の中の“変わらない何か”が鳴らす音。
司郎はペンを握り直しながら、うなずいた。
「……じゃ、描くわよ。“あんたの帰る場所”を」
「うん」
「絶対、“墓”にはしない。生きる建築。帰れる建築。
アンタが笑える建築。それがアタシの仕事」
静かな設計室に、夜の空気が流れる。
そしてふたりの肩越しに、
遠くから──幸の足音と、
踊り場の田中さんの寝言(「残業……終わらない……」)がうっすら聞こえてきた。
でも、そんな騒がしさすら、
今夜はとても優しかった。
出るビルの深夜は、やっぱり温かい。
あやのの旅は続くけれど、
司郎の設計図は、いつだって──
あの子の「おかえり」を待つ建築を描いている。




