第二十三章 静かなる鬼と、おしゃべりな幽霊
夜の「出るビル」は静かだった。
外灯の光がレンガの壁に滲み、東京の喧騒をほんの少しだけ遠ざけてくれる。
二階の廊下。蛍光灯がちらちらと明滅し、電気工事を後回しにしたままの配線が、梶原國護の作業リストの一つとなっていた。
梶原は片膝をつき、工具箱から配線クリップを取り出す。
無言で照明のカバーを外し、手際よく中を確認した。指は素早く、正確に動く。
「……やるねえ、あんちゃん。現場慣れしてる手つきだ」
唐突に背後から聞こえた声に、梶原はぴたりと動きを止めた。
気配はある。
だが、恐怖ではない。むしろ――人懐っこい。
「……山形さんか」
ぽつりと名前を呼ぶと、エレベーターの前に、くすんだチェックのシャツを着た中年の男の霊が現れた。
首にうっすらと残る縄の痕は痛々しいが、本人はまるで気にしていない様子で手を振った。
「やだな、驚かせるつもりはなかったんだってば。ただなあ……あんちゃん、あまりにも無口だからよ。つい声かけたくなっちまった」
梶原は手元を見たまま、無言でうなずいた。
山形はしばらく腕を組んでその作業を眺めていたが、唐突に尋ねた。
「おまえ……人間じゃねえな?」
梶原の手がわずかに止まり、再び動き出す。
その間に、静かに言葉を返した。
「……鬼だ。遠野の里から来た」
「ほほう。鬼のくせに、資格試験なんてもの取ってんのか?」
「……資格は、人間の世界で必要だ」
「ま、そりゃそうだな。俺も昔は管理職でよ、資格持ってる奴とばっかり仕事してたわ。現場は地味だけど、大事なんだよな……おまえ、仕事好きか?」
「……嫌いじゃない」
山形はしばし沈黙し、それから満足げに笑った。
「不思議なもんだな。あの世じゃ“肩書”も“立場”もみんな消える。でも、生きてるときのクセってのは……なかなか取れないもんさ」
梶原は静かに、最後のクリップをカチリとはめた。
蛍光灯がふっと安定し、白い光が廊下を満たす。
「あやのが、おまえのこと気にしてたぞ。“山形さんって、根はいい人なんだよ”って」
「……あの子は変わってる。怖がらないし、怒らない。俺なんて脅かすのが趣味みたいなもんなのによ……」
「……怒ってない。俺も」
「ん?」
「……びっくりはしたけど、嫌じゃなかった」
山形は、ぽかんとした顔をし、それから破顔した。
こんなふうにまっすぐ言われたのは、死んでから初めてだったのかもしれない。
「ありがとよ、あんちゃん。おまえ……名前、なんつーの?」
「梶原國護」
「カジくん、か。いい名前だな。……なあ、たまには、俺の話も聞いてくれよ。あの世はヒマでさ」
梶原は首を傾げ、少し考え、それから小さくうなずいた。
「……おれ、聞くのは得意。しゃべるのは苦手だけど」
山形の表情が、ふっと柔らかくなった。
「じゃあ今度、酒の話でもしようぜ。俺の生前の失敗談つきでな」
「……鬼も酒、強い」
「やっぱりか!」
廊下にふたり――人ならぬ者たちの、ほのかな笑い声がしばし残った。
不思議なことにその夜、エレベーターはいつもより静かだった。