第百三十五章 再び風を聴く
アウラでの仕事は終わった。
世界中の都市が沈黙と振動の新たな“音の言語”に耳を傾ける中、
あやのは、ふたたび歩き出そうとしていた。
都市の胎動が彼女に宿り、
彼女の沈黙が都市を変えた。
その記憶だけを携えて、
彼女はアウラをあとにする。
梶原國護は、荷造りの手を止めて、静かにあやのを見ていた。
「……本当に、いいのか?」
あやのは小さく頷いた。
「うん。ここはもう、わたしがいなくても響いてる。
だから、次を聴きに行かなくちゃ。風の先に、まだ音がある気がするの」
「……そうか」
男は、それ以上何も言わなかった。
ただ、腰に巻いた工具袋を締め直し、護衛犬・幸の首輪を軽く叩いた。
「行くぞ。おまえも隊列について来い、頼れる犬娘」
「わん」
一言、静かな返答。
どこまでも賢く、どこまでも静かな忍犬・幸もまた、ふたたび旅に戻ることを悟っていた。
その日の午後、司郎デザインのスタッフたちが
一足先に事務所へ戻る準備を整えていた。
ヘイリーはハートコアの窓から外を眺めていた。
「あの子……ほんとに行くんだね」
「ええ、たぶん止めても無駄よ」と司郎は味噌汁を啜りながら言う。
「だって、あの子は“歩きながら音を聴く”子なのよ。座ってたら音が腐るわ」
「……でも、少し寂しいわ」
「それでいいのよ、ヘイリー。
建築だって、誰かが去ったあとの“空白”に意味が生まれるんだから」
司郎は書類の束をめくりながら続けた。
「それより、次よ。国内で動いてた“都市リノベーション”の新規公募。
都市遺構の再設計案、あたしらに白羽の矢が立ったわ」
「どこ?」
「東京よ。懐かしの“あの街区”──再開発、ようやく動き出すってさ」
ヘイリーの目が光る。
「じゃあ、また……“日常”に戻るんだね」
「ええ。やっとね」
その夕刻、アウラの駅前。
出発の少し前、あやのは梶原とベンチに並んで座っていた。
彼女の真珠色の髪が風にそよぎ、
少し大きめのシャツの裾がふわりと揺れる。
「……ありがとう。梶くん」
「何が?」
「ここで、わたしが変わっていくのを、ずっと隣で見てくれたから」
梶原は少し黙ってから、ぽつりと返した。
「変わったんじゃない。……咲いたんだよ」
あやのは目を伏せて、小さく微笑んだ。
やがて列車が来る。
ホームに立ち、あやのは振り返らずに歩き出す。
梶原も、幸も、黙ってその背中に続いた。
──風が吹いた。
列車が音もなく走り出す。
そのとき、誰にも聴こえないはずのハミングが、
アウラの空に、ふたたびふわりと漂った。
それは、あやのの旅の再開を告げる、
小さな**“生きた音”**だった。




