第百三十四章 沈黙の産声
音を失ったはずの都市は、
あやのの沈黙によって、初めて**「音を得た」**のかもしれない。
街を歩く人々が、何も聴こえないのに足を止め、
胸を押さえ、空を見上げる。
その目に浮かぶ涙は、悲しみでも感動でもない。
ただ、何か**「思い出してしまった」**者の表情だった。
あやのの奏でる沈黙は、
誰の中にもあるはずの“聴きたかった音”を呼び起こす。
ハートコアの頂。
あやのは、静かに横たわっていた。
胸の上に置かれた手が、小さく呼吸とともに動くたび、
都市全体の響きがわずかに揺れる。
白衣に包まれた身体は、女として完成しつつあった。
曲線はよりなめらかに、
胸元は豊かに、
下腹部は微かに温もりを帯びて膨らみ、
まるで──音を宿した胎のようだった。
そこには、ただの肉体的な変化を超えた**「意味」**が宿っていた。
無性であった彼女が、なぜ女になっていくのか。
なぜ身体が、楽器のように進化していくのか。
それは、彼女自身の意思ではなかった。
世界が求めた「響きの器」として、
音が彼女を変えていったのだった。
梶原國護は、静かにそばにいた。
腕を組み、声も出さず、
ただじっと、彼女の変化を見守っていた。
彼の中には、幾つもの感情が交錯していた。
焦り。
憧れ。
不安。
そして、どうしようもない孤独。
(おまえは……もう、俺が知ってたあやのじゃない)
彼女の身体も心も、世界の一部に取り込まれていく。
だがそれは、美しく、静謐で、あまりにも遠い。
(でも俺は、置いていかれるのが怖いんじゃない)
そうじゃない。
(おまえが、自分じゃないものに“なりきってしまう”ことが怖い)
都市に染まり、音の神に化し、
人であることすら手放してしまうのではないか──
その時だった。
あやのが、そっと目を開けた。
静かに瞬きし、
唇の端を、かすかに上げる。
「……梶くん」
その声は、鼓膜には響かなかった。
けれど彼の胸の奥で、はっきりと“届いた”。
「まだ、いるよね」
梶原は息を飲む。
「……ああ、いる」
「よかった……“わたし”、まだわたしなんだね……」
梶原は、あやのの手を取った。
その指先は柔らかく、微かに震えていた。
命が震えるように。
そして、次の瞬間だった。
都市の空に、音にならない音が放たれた。
あやのの身体の深部から、
沈黙の膜を破るように、生まれた最初の“産声”。
それは、誰にも聴こえなかった。
だがその場にいたすべての人間が、
涙を流しながら、空を仰いだ。
心で響くその声は、
言葉にすることができなかった。
ただひとつ、確かだったのは──
あやのが、「世界に新しい音を生んだ」こと。
それが、産声だった。
梶原は、彼女の手を強く握りしめた。
「……おかえり、あやの」
あやのは、小さく笑った。
その微笑みに、都市の風が静かに揺れた。




