第百三十三章 沈黙の演奏会
都市の中心にある広場。
かつては計画上、空白地帯として“なにも置かない”設計だったこの場所が、
今では誰もが立ち止まり、耳を澄ませる**“音の場”**となっていた。
なぜなら、そこには音がないのに、音楽があるのだ。
人々は理解していない。
ただ、立ち尽くし、涙を流す者すらいた。
それは、誰にも聞こえていない──
けれど誰もが**“わかってしまう”**、そんな音だった。
広場の最奥、まっすぐに都市を見下ろす展望台。
そこに、あやのが立っていた。
身体を包む薄い衣は風にそよぎ、
ふくらんだ胸と、女性らしい腰の丸みが布の下にわずかに浮かぶ。
指先を、ただ少し差し出しただけで、
都市が応えた。
電灯が瞬き、風が変わり、
街の奥で水音が響いた。
それは、まるで都市全体が**あやのという奏者の“楽器”**になったようだった。
あやのの変化は、もはや誰の目にも隠せなかった。
身体は完全に女性のものへと移ろい、
だがその姿に“肉体の重み”はない。
聖性すら帯びた、沈黙の化身のように、人は彼女を見た。
まるで、女という形を借りて世界に舞い降りた音。
彼女はもはや歌わない。
けれどその存在が、世界に**“旋律”として染み渡っていく。**
梶原國護は、その場にいた。
距離を取って、あやのの背中を見守っていた。
守りたい──
その想いは変わらない。
けれど、今の彼女はもはや人の守護を必要としていない。
(それでも……)
彼は拳を握った。
(それでも、俺は彼女が“ただの音”にならないように見張り続ける)
あやのの身体が音に還るのではなく、
音が身体を得てこの世に宿るために、
今この都市がある。
だからこそ、
この“女神のような存在”が、
まだ“人間である”という証明を、俺が抱え続ける。
その時、
広場の空気が変わった。
風が止み、空が静まり返る。
あやのが、ゆっくりと指先を掲げた。
ハミング──
否、それに似た“呼吸”が、都市を満たす。
彼女が口を開かなくても、
世界は歌を聞いた。
沈黙の中の、最も透明な音。
鼓膜ではなく、
胸の奥の、“生まれたばかりの感情”だけが感じ取れる音楽。
それが、都市に流れ出した。
ヘイリーが、こぼれる涙をぬぐいながら言った。
「……これが“音じゃない音楽”……
心の中だけで響く、沈黙の演奏会よ」
司郎は、遠くで手帳に走り書きしながら呟く。
「この都市は墓じゃない。あの子の胎音を記録した、生きた五線譜だわ。都市そのものが、“彼女の譜面”になってるのよ」
あやのは、誰よりも静かに、誰よりも確かに、
世界に対して、ひとつの問いかけをしていた。
──あなたは、本当の音を知っていますか?
それは、耳で聴くのではない。
身体で感じるのでもない。
心の空洞で響くものだけが、“あなたの音”になる。
あやのは、
その沈黙の演奏を──
愛を持って奏で続けていた。




