第百二十九章 音響受胎
都市の中枢、響室は、
もはやただの建築空間ではなかった。
それは呼吸し、反応し、
あやのという存在と“音響的な生命連鎖”を形成しはじめていた。
司郎は、それを見て静かに呟いた。
「……これは、設計じゃないわね。
音響妊娠よ。都市の胎内に、“あの子の音”が宿ったのよ」
ハートコア内部。
あやのは、深い眠りからゆっくり目を覚ました。
毛布にくるまれた胸元から、ふわりと漏れる吐息。
その瞬間、部屋の空気が微かに震え、
壁面の共鳴装置があやのの呼吸だけで微細に波打った。
まるで、彼女の身体が中心にある限り、
都市そのものが“胎内反応”を起こしているかのようだった。
起き上がろうとしたあやのは、
腹部に微かな張りを感じ、
そっと手を当てた。
鼓動とともに、温かな音が宿っている。
「……私、やっぱり……」
誰に言うでもなく、
そっとつぶやくその言葉の先に、
新しい実感があった。
──これは音響の受胎。
彼女の身体の奥、
耳ではなく、鼓膜でもなく、
子宮に似た場所が音を孕んでいる。
自分の声ではなく、
世界から預けられた音。
それが、ひとつの「命」に似た響きを持って育っていく──
そんな直感が、あやのの中に芽生えていた。
同じ時刻、外で梶原國護は響室を見上げていた。
彼の目は赤く、眠れていないのがわかる。
「……怖い」
小さく呟いたのは、
守ることに慣れた男には珍しい弱音だった。
あやのが“音そのもの”になっていくのがわかる。
その変化は美しく、神秘的で、
そして──遠くなっていく。
自分の手が、もう彼女に届かないのではないかという恐怖。
だが、それでも。
「それでも、守る。……誰より近くで、触れられなくても、傍にいる」
それが自分にできる唯一の選択だと、
男は胸に刻みつけた。
午後。
あやのは、自らの意思で外に出た。
風に揺れる薄衣。
胸元はやや膨らみ、
腰のラインには、かすかに女性的な湾曲が現れはじめている。
街を歩く人々は、思わず視線を奪われる。
だが誰も口に出せない。
その姿には、
「人間を超えた美しさ」があった。
都市が“音”を受胎したことに気づいている者だけが、
その変化を「祝福」と呼んだ。
ヘイリーが彼女に近づき、
小声で尋ねた。
「……痛みは、ない?」
あやのは首を横に振る。
「痛みはないの。でも、時々、胸が苦しくなるの。
このまま“女になっていく”のが、私の意志じゃない気がして」
ヘイリーはあやのの肩に手を添えた。
「それでも、“あんたの音”がそれを選んだんでしょ。
身体は、それに従って、変わっていってるのよ」
あやのは微笑む。
「じゃあ、きっと……私は、“音の娘”じゃなくて、“音の母”になるのね」
その夜。
梶原があやのにそっとブランケットをかけようとしたとき──
ふと、彼女が目を開けた。
「梶くん……」
その声は、もう以前のあやのではなかった。
柔らかく、包むようで、
耳に響かずに胸の奥に沈んでくる声。
「わたし……音を宿したの。もう、戻れないみたい。でも、怖くないの。梶くんが傍にいるから」
その言葉に、梶原の胸がひとつ、大きく鳴った。
(なら……俺はこの声を一生、守る)
彼は、ただ彼女の手を握り、うなずいた。
それは恋でも、執着でもない。
もっと原初的な、「命を繋ぐ」決意だった。




