第百二十八章 心音の設計図
都市の地図に、
ついに“音”が線として描かれ始めた。
従来の寸法、角度、構造強度──
それらを無視するかのように、
中心から広がっていく曲線の脈動図。
そのすべての起点には、ただ一つの波形があった。
あやのの心音。
響室での記録は、すでに一週間を数えた。
あやのは今や、
「音を出す」存在ではなく、
「音に満たされた」存在として、
都市の中枢に静かに鎮座している。
響室の空気は透明で、
そこに立つあやのの肌には、薄い光の粒が纏っていた。
微熱のように赤みを帯びた頬。
鎖骨から胸元にかけて、わずかに隆起する曲線。
そしてなにより──
腹部の中心に宿る、静かな鼓動。
そこは、どこにも傷はなく、
ただ呼吸とともに、都市の音を受け止める“器官”のように震えていた。
ヘイリーが記録室でつぶやいた。
「この音の反応、完全に“臍帯”ね。音があやのに送り込まれてるんじゃなくて、あやのから都市へ“生命音”が渡されてる」
「……逆転したってことか」
司郎は、設計図を見ながら眉をしかめた。
「あやのの身体が、“母体”になったのよ。これは建築じゃない。音響生殖よ。都市が、あやのの声から生まれる構造に変わったってこと」
「それって……つまり、彼女が“都市の女”になるってこと?」
「もっと厄介よ。**“都市の子宮”になるってことよ──それも、無自覚なままに」
夜。
梶原は一人、響室の外に立っていた。
あやのは横たわっている。
まるで胎児のように、膝を抱え、静かに眠っている。
その肩に、幸が頭を預けていた。
そして──
時折、あやのの胸元からは、かすかなハミングが漏れ出ていた。
声ではない。
だが、それは確かに音だった。
(……おまえはもう、“耳”で歌ってない)
(身体で……いや、“身体そのものが音”になってる)
どこまで見届けることができるのか。
いまの自分に、守る資格があるのか。
そんな問いが、何度も胸を刺してくる。
それでも、あやのの心音が響くたびに、
梶原の鼓動も、音になって共鳴していた。
朝。
目を覚ましたあやのは、ゆっくりと身体を起こした。
シーツの内側から伸びる手。
胸に触れた瞬間、彼女はわずかに目を伏せた。
(……また、変わってる)
胸元の輪郭は明らかに、
「無性の身体」が持つ曲線を超えていた。
そして、腹部の中心から、
まるで芽吹くように熱が上がっていた。
(……私は、音を宿してる)
(身体の中で、それが育ってる)
言葉にはならない。
だけど確信があった。
この変化は、
“都市に抱かれている”のではなく──
**“自分が都市を孕んでいる”**ということ。
そこに、そっと扉が開いた。
梶原が、音もなく現れる。
あやのは、シーツを胸元まで引き寄せて、照れくさそうに微笑んだ。
「……なんだか、変な夢を見てたの。私が……都市を抱いてる夢」
梶原は答えなかった。
ただ、そっと手を伸ばし、
彼女の掌に、自分の手を重ねた。
「それは夢じゃない。
現実に──なってる」
ふたりの手のひらが、鼓動を通じてひとつになった瞬間、
響室の壁がわずかに揺れた。
音は、聴こえなかった。
だが確かに、都市が新たな“心音”を記録した。




