第百二十七章 胎響構造体、始動
その朝。
霧に包まれた都市の中心で、
**「胎響構造体」**と名付けられた新建築プロジェクトが、静かに動き出した。
建築とは、通常“空間を構築する行為”だ。
だが今回は違う。
都市が持つ感性と、あやのという存在そのものを響鳴の核に据え、
“声を孕む都市構造”を創り出す。
「音を閉じ込めるのでもなく、拡散させるでもなく……
これは“内包する空間”よ。子宮のように、静かに、深く。
その中に、“産声のようなハミング”が宿るわ」
司郎のその言葉に、技術者たちは思わず筆を止めて見入った。
図面には、建築というより“呼吸する有機体”のような構造が描かれていた。
梶原は、すでに現場の測量と構造素材の準備に入っていた。
誰よりも早く現地に立ち、
誰よりも遅くまで、図面と向き合う。
だが、彼の目はしばしば、設計図ではなく、
現地測定用のハミングブースに向けられていた。
──そこには、
ハミングによって「音の胎内」を可視化する役割を担う、
真木あやのの姿があった。
淡い光のなか、
共振する足場の上で、彼女は呼吸を整えている。
白い衣が風を孕み、
胸元に宿るわずかなふくらみが静かに脈打っていた。
(……この身体が、“音を孕む器”だなんて)
声には出せないが、
梶原の心はそのたびに軋む。
変わっていく彼女。
変わらずに近くにいる自分。
だが“守る”だけでは、もう足りない。
この空間に宿る音を、
誰よりも先に、誰よりも深く**“聴き取りたい”**と思ってしまっている──
(……その願いが、独占かもしれないとしても)
設計ブースでは、あやのとヘイリーの会話が静かに続いていた。
「ねぇ……私、いま自分が“空洞になっていく”みたいで、怖いときがあるの」
「空洞……?」
「声を出すたびに、何かを手放してる気がするの。
でもね、それが不安じゃなくて、“正しいこと”だって、身体のどこかが教えてくるの」
ヘイリーは少しだけ眉を寄せたあと、
あやのの肩にそっと手を置いた。
「それはたぶん、“母性”よ。あんたの身体が、声そのものを生む場所になっていってる証」
「……でも、私、誰の母でもないのに」
「違う。これは、世界のための“祝福の母体”。
音を通して、他者を包むこと──それが、“都市の心臓”になるってことよ」
あやのは、黙ってうなずいた。
胸の奥で、またひとつ、
音が芽吹く気配があった。
その日の終わり。
現場にひとつの「響室」が仮設された。
それは胎響構造体の“核”となる部屋。
誰にも触れられない、最も静かな場所。
あやのは、そこに入った。
幸だけが静かに付き添う。
そして彼女は、そっと唇を開いた。
声は出さない。だが──
音は生まれた。
鼓膜ではなく、
建物の骨格が、
都市の空気が、
彼女の存在に応えて震えた。
そして、設計図の中心部に配置された共振軸が、
“あやのの心拍と同調する”という異常を記録した。
それは、もはや人間の技術では測れない反応だった。
梶原はその報告を聞きながら、誰にも言わず、拳を握った。
(……あいつが、世界に包まれていくなら。俺は、あいつを抱いて、この“音”を一緒に受け止める)
もはや、ただの現場監督ではない。
彼の想いは、音の胎内で芽吹く決意へと変わっていた。
そして、どこかで彼女もそれを感じ取っていた。
夜。
音を聴く都市の上に、また静寂が落ちる。
あやのは、響室の床に横たわり、
耳ではなく、身体で、世界の鼓動を感じていた。
それはまるで──
これから生まれるすべての“音の赤子”たちを、
胸に抱くような眠りだった。




