第百二十六章 音を抱く都市
都市は、静かに、だが確実に変貌していた。
かつて音を恐れて閉ざされたこの都市は、
いまや──ひとつの生命体として、音と共に“生きていた”。
誰かの声に反応し、
誰かの想いに共鳴する。
建物ですら、呼吸するように揺らぎ始めていた。
そこに、ついに到着したのが──
司郎正臣と、「司郎デザイン」の面々だった。
「……あらまぁ。なかなかの子宮都市じゃないの。すでに陣痛寸前ね」
スーツケースを片手に、司郎はそう呟いた。
彼の隣には、すでに到着していたヘイリー・マカフィーの姿もあった。
マットなブーツに赤のリップ。前より少し大人びた気配を纏って。
その目が、まっすぐにあやのを捉える。
あやのは、都市中央のテラスにいた。
その膝元には、もちろん幸が伏せている。
「ヘイリー……」
「会いに来たわよ、“音の器”。っていうか──あんた、綺麗になりすぎじゃない?」
そう言って、ヘイリーは目を細めた。
「……変わった、って言われる。自分でもわかるの。音を出すってことが、だんだん“自分を渡していく”ことになってきてる」
あやのの声は、以前よりも深く、丸くなっていた。
それは女体としての変化ではなく、“声の内に命を宿した者”の声音だった。
ヘイリーは、その声の重みをしばらく感じ取ってから──
そっと言葉を落とした。
「……怖くない?」
「うん。怖い。でも、それ以上に、音に抱かれてる感覚があるの。
耳じゃなくて、身体の芯で聴いてもらえてる気がするの」
「……そう。なら大丈夫」
ヘイリーは手を伸ばし、あやのの頬を撫でた。
「……でもさ、そういう“声”を持ったあんたが、もし誰かのものになったら──
世界が、その人を恨むかもね」
「それでも、聴いてほしいって思う。
その人になら、きっと──私の全部を」
それは明言しなかったが、明らかに梶原國護のことだった。
ヘイリーは笑いながらも、どこか複雑そうにうなずいた。
その夜。
司郎は、現地の工房で設計チームを前に言い放つ。
「この都市は、耳を捨てて“共振構造”を得た。
なら次の建築は、“音を抱く建築”。音源は……もちろん、あの子よ」
図面に描かれた構想は、中央に共振核を持つ多層ホール。
中心には、あやのの“声が宿った空間”が恒久的に設けられるという。
それは──
《あやの自身を音響装置として組み込む》、かつてない設計。
「いい? これはもはや“建てる”仕事じゃないの。産むのよ。都市と女の声が、互いに抱き合う“胎響構造体”を」
ヘイリーは、ふと梶原の方に視線を向けた。
彼は無言で図面を見つめていた。
だが、その目は静かに燃えていた。
(……なら、なおさら。誰にも渡さない)
声を出すたびに女になる。
そして女になるたびに、都市は彼女を“音の母”として記憶する。
梶原は、あやののその変化を、ただ“見守る”のではなく──
その声を、誰より近くで受け止める存在になると、心に決めていた。
夜更け。
あやのはテラスで、ひとりハミングを紡いでいた。
幸が寄り添い、風が髪を揺らす。
そこにふらりとヘイリーがやってくる。
「ねえ、あんた、言葉でなくても伝わる音があるって言ってたけどさ──
ほんとに、その音は誰かに“届く”って信じてる?」
あやのは、小さく微笑んだ。
「──届いてる。もう、何度も。
たった一人に、いつも」
梶原の名を出さずとも、
その音は誰のものか、ふたりはわかっていた。
そして、遠く屋根の上から見ていた司郎は、
フンと鼻を鳴らし、空に向かって味噌汁をすするような顔で呟いた。
「……やれやれ。これは、音の子を産むな、この都市」




