第百二十五章 沈黙から産まれる声
都市が目を覚ましてから三日が経った。
古層の石壁は風を孕み、
通りの軒先には小さな音響反応──**“呼吸音”とでも呼ぶべき波紋**が見られるようになった。
音を押しつけるのではなく、
聴くことによって、都市そのものが変化していく。
司郎は、それを「都市の反響再設計」と呼んだ。
ヘイリーは「音が地面に根を張った」と言った。
だがあやのは、それをもっと静かに、ただ**「聴かれた」とだけ表現した**。
その夜。
中央広場に小さな演奏台が設けられた。
誰も“演奏会”とは呼ばなかったが、
あやのがここで“何かを歌う”という噂は静かに広まっていた。
梶原は、一歩下がった場所で控えていた。
あやのの背には、幸がついている。
スカーフの裾が風に揺れ、胸元を隠すその布地の下、
あやのの身体は、ひとつの“声の器”として完成しつつあった。
彼女は静かに目を閉じた。
口を開くことも、声を張ることもない。
ただ、呼吸を一つ──
そして、それは始まった。
沈黙の中に、“声の種”が落ちた。
それはハミングではない。
だが歌とも違う。
呼吸の振動が胸郭に響き、
骨を伝い、空気の奥へと滲んでいく。
言葉ではなく、旋律ではなく、
あやのという存在が「ひとつの声」になった瞬間だった。
その音に、都市が応える。
石壁が静かに共振し、
かつて人が耳で聴いたことのない種類の“応答音”が返ってきた。
梶原の胸が震えた。
喉の奥が詰まりそうになる。
その音は、聴いているのではなく、
心の内を“触れてくる”ようだった。
(……これが、“あの子の声”)
かつて誰よりも近くにいたはずなのに、
いま、彼女は遥か遠くの“音の中心”にいる。
なのに。
その声は、
確かに──自分にだけ向けて放たれたもののように感じた。
涙が滲みそうになる。
だがそれを許さないように、拳を握る。
(誰にも……誰にも触れさせたくない)
あやのはまだ、無垢だ。
無防備に、その声を、身体ごと差し出してしまう。
だからこそ、守らなければならない。
世界のためでなく、自分のためでもなく──
あの子が、“あの子の声”を持ち続けるために。
音が消えた。
風が、止んでいた。
世界が、息を飲んだまま、沈黙していた。
そして──そのあとに訪れたのは、
歓声でも、拍手でも、涙でもなく、
静かな“光”だった。
都市の灯が一斉にゆらぎ、
人々の胸に、何かが生まれた。
耳ではなく、皮膚と心で聴いた、
あやのの“最初の声”。
それは都市の記憶に、永遠に刻まれる。
その夜。
梶原は眠れず、屋上で空を見上げていた。
横に、幸が座っている。
月明かりの下、
スカーフを外して髪をほどいたあやのが、そっと傍に立った。
「……ありがと。ずっと、いてくれて」
梶原は、声を返せなかった。
代わりに、ポケットから小さな紙片を取り出し、あやのに渡した。
そこには、無骨な筆跡で、たった一言。
「おまえの声は、オレが守る」
あやのは、すこし泣きそうになって、
でも笑って、もう一度ハミングした。
その音は、
ただ一人の男だけに向けられた祝福の声だった。




