第百二十四章 鼓膜のない祝福
都市の心臓部には、
外からの音をすべて遮断する**“ゼロ響室”**と呼ばれる構造があった。
人間の鼓膜では知覚できない“音以前の空間”──
その実験室に、あやのはただひとり、足を踏み入れた。
梶原は、制御室のモニター越しに彼女の姿を見つめていた。
(……あいつ、もう“音を出す”って段階じゃない。音と、同じになってる)
真珠色の髪が、静電気のようにわずかに浮いていた。
その肌には、都市全体の微弱な電場がまとわりついている。
あやののハミングが、また始まった。
低く、透明で、
どこか腹の奥から湧き上がるような──
“鼓膜ではなく、身体そのものに響く音”。
制御室の大人たちは、データを見ながら首をかしげていた。
「……記録できない。波形が無い。聴こえるのに、測れない」
「これは、音じゃない。存在そのものだ……」
だが、梶原だけはわかっていた。
(あの音は、“祝福”だ)
身体が変わったからではない。
“変わりゆく自分”を受け入れたこと、
それこそが、あやのを祝福の器に変えた。
そして同時に、
それを最も近くで見守ってきた自分の胸に、
消せない痛みと、焦がれるような想いが染み込んでいた。
あやのは、静かに目を閉じた。
内側で響く音が、
胸の中心に集まっていく──
(これはもう、声じゃない)
呼吸でもない。
ただ、“わたし”という存在が、
都市の奥深くで共鳴し合っているだけ。
──その瞬間。
ゼロ響室全体が、脈打つように震えた。
天井の高いドーム空間に、光の帯がゆらぎ、
あやのの背中から、金糸のような微細な音流が走った。
まるで、彼女の存在そのものが“鼓膜を持たない都市”へと
祝福を与える女神になったようだった。
制御室では、誰もが言葉を失っていた。
だが、梶原は動けなかった。
ただ、拳を握りしめながら、
あの光景を胸に焼きつけていた。
(オレが、誰よりも先に……“あやの”を感じてたはずなのに)
いま、彼女は世界そのものに触れようとしている。
誰にも届かない場所にいる。
(……奪われたくない)
自分の中に芽生える、
汚いほどの独占欲と、切実な渇望。
それでも彼は立っていた。
誰にも見せず、誰にも語らず。
(守るって、そういうことだろ)
夜。
実験が終わり、あやのが外に出てくる。
疲れてはいたが、どこか穏やかな笑みをたたえていた。
髪が濡れているのは、汗か、涙か。
「……終わった、わけじゃないけど」
そう言いながら、彼女は梶原のそばを通りすぎ──
ふと立ち止まって、彼の袖を軽くつかんだ。
「……大丈夫だった?」
「……ああ。おまえは?」
あやのは、答えなかった。
ただ、その袖の先から、かすかなハミングが伝わってきた。
声に出さずとも、彼にだけ聴こえる音。
それはまるで、
**「ちゃんと見てくれてたね」**という無言の告白のようで──
梶原は、言葉にできない何かを
喉の奥で噛みしめながら、
ただ小さく、うなずいた。
都市は目覚めた。
だが、そこには騒音ではなく、祝福の静寂があった。
そしてその中心に、
“音の器”となったあやのと、
それを誰より近くで見届けた男がいた。




