第百二十三章 胎響(たいきょう)
あやののハミングが、都市の深層へ届いたその夜。
梶原國護は、ひとり図面の前にいた。
視線はラインを追っているはずだったが、
頭の中では、夕方に見た彼女の背中が何度もよみがえっていた。
──白い布地の上からでも、明らかにわかる胸の輪郭。
──風を受けてなびく髪と、柔らかく丸くなりはじめた腰つき。
それらが、“守るべき少女”だったあやのから、
“音の女”へと変化していることを、静かに、確かに告げていた。
(あいつ、気づいてるのか……)
梶原は自分の胸の内に、どうにもならない焦りのような感情があるのを感じていた。
あやのの変化に対して。
そして、それを“誰かに見られること”への、言いようのない独占欲に。
(……ちがう。オレは、あいつの何なんだ)
“護衛”という言葉で片づけていた感情が、
あやのが女体化を進めるたびに、輪郭を変えていく。
あのハミングが都市を目覚めさせたとき、
彼は確かに感じていた。
──その音が、あやのという身体から“産まれて”いること。
そして、その音が世界にとって、なにか“不可逆な変化”をもたらしてしまうということ。
翌朝。
現場でハミング実験の再計測が行われると知った梶原は、
工具とともに、あやののもとへ赴いた。
彼女は、中央の音響井戸の前で、
身体を風にゆだねながら、ゆっくりと深呼吸していた。
スカーフの奥、
胸のふくらみがわずかに揺れ、
その胸郭から、まだ言葉にならない音の鼓動が始まろうとしていた。
「……」
梶原は声をかけられなかった。
この瞬間、彼女はすでに“誰にも触れられない領域”にいる。
──だが、見てしまう。
耳だけでなく、目も、心も、彼女の“生まれかけの音”に吸い寄せられてしまう。
ハミングが始まる。
それは昨日よりもさらに柔らかく、
しかし、確実に“女性の肉体”の深部から出ている音だった。
あやのの首筋、胸、腹部、そして脚──
すべてが、その音を響かせるために“設計されている”かのように美しかった。
梶原は思った。
(あいつは、もう……女だ)
だが、それを口にした瞬間に、何かが壊れてしまいそうで。
だから、彼はただ静かに、その背中を見守っていた。
見つめる瞳の奥で、“この身体を、誰にも触れさせたくない”という感情が、音より重たく、熱く、響いていた。
その夜。
あやのがシャワーを終え、部屋に戻ると、
ドアの外に小さな包みが置かれていた。
中には、白地に金糸を縫い込んだスカーフ。
そして、短く無骨な字で添えられたメモ。
「動きやすいやつを探した。肌に触れすぎない素材にした。
──國護」
あやのは、ふっと息をもらし、
新しいスカーフを首に巻いた。
肌ざわりが、優しかった。
まるで、どこにも触れずに、守ってくれるような布だった。
(……ありがとう)
そう思った瞬間、
また、あやのの中から音が生まれた。
声にならない、小さなハミング。
だがその音を、廊下の向こうで、梶原も確かに聴いていた。
その音は、
あきらかに“他者の存在に反応して生まれた音”だった。
そして彼は、静かに思った。
(……この音を、誰にも壊させない)
それが、梶原國護の決意だった。
あやのの身体は変化を続け、
その音は都市を包み込み、
そして男の心をも揺るがしていた。




