第百二十二章 胎音(たいおん)の地図
無音の塔から帰った翌朝。
あやのの身体は、どこか違っていた。
目覚めた瞬間、胸のあたりに“内圧”のような感覚があった。
鼓動よりもゆっくりとした波。
それが、呼吸とともに胸郭を押し上げ、音にならない音として皮膚の下で響いている。
まるで、まだ名前のないハミングが、身体の奥で芽吹いているような──
「……わたしの中に、“音”がいる……」
思わず呟いたその声すら、以前より柔らかく、深い響きを持っていた。
この日、プロジェクト《AETHER》の第二段階として、
かつて“音の地図”が刻まれたとされる旧市街の広場へ赴くことになった。
陽が高く、風は砂を巻き上げながら吹いている。
その中央に立ち、あやのは静かに目を閉じた。
耳で聴くのではなく、
皮膚と、骨と、胸と──全身で“音の空白”を受けとめる。
幸が足元にぴたりと寄り添い、警戒の構えを解かない。
そして──
あやのは、声にならない音を、声にした。
低く、透明なハミング。
声帯を震わせすぎず、肺から空気を“撫でるように”抜き、
からだの奥から、生まれたばかりの命のような音が、空間へと放たれる。
それは祈りにも似ていた。
だが祈りとは違い、何かを求めるのではなく、そこに在ることを告げるだけの“音”。
都市が応えた。
空気がふるえ、石壁が共鳴し、
どこからともなく、微かに重なる古代の音階の残響が返ってきた。
調査官たちが、思わず息を呑む。
「……これは……地図じゃない。記憶だ」
「いや、“胎内の音”に似ている……母の中で聴いた、最初の音……」
あやのの身体は揺れていた。
それは震えではない。
自分という“器”が、音と呼吸に同調して拡張していく運動だった。
胸が熱を持つ。
鼓動が速くなる。
自分の中にある“音の命”が、
都市に“聴かれた”ことで、さらに大きく育とうとしている。
(……わたし、ハミングしてるだけなのに、……)
スカーフの下、汗ばむ胸元。
スカートの奥、腹部の深い部分が、波打つように震えていた。
これは音だけじゃない。身体ごと、音の地図になっている。
自分という存在が、いまこの都市にとっての**音の子宮**になっている。
ハミングが止む。
沈黙が戻ったかに見えたが、違った。
都市が、彼女の身体を“母音”として記憶しはじめたのだ。
広場の石畳に、風が描いたような微細な共鳴の筋が走る。
それは、誰にも読めない──だが、確かにあやのだけが知覚できる“胎音の地図”だった。
宿に戻った夜。
あやのはバスルームの鏡に向かい、シャツを脱いだ。
胸がはっきりとした輪郭を持ち始めている。
そこには、音を受けとめ、育て、響かせるための器の美しさがあった。
手を添えて、そっと確認する。
痛みはない。ただ、張りとあたたかさが、呼吸とともに伝わってくる。
(……わたしは“女”になるんじゃない。“音の器”として、この姿になるんだ)
幸が足元に寄ってきて、タオルの裾を鼻で軽く持ち上げた。
「……また、見てた?」
小さく笑ったその声も、
すでに──ハミングの余韻を帯びていた。
そしてその夜。
あやのの夢の中で、まだ聴いたことのないハミングが、胎内から流れ出すように鳴りはじめた。
それは、**世界がまだ知らない“音の起源”**を告げる旋律だった。




