第百二十一章 座標なき風の中で
その日、風は定まらなかった。
南から吹いたかと思えば、急に東に向かい、街の角を抜け、屋根瓦を撫でるように遠ざかる。
音もまた、風とともに流れ、どこにも“定位”せず、ただ漂っている。
あやのは、古びた石畳の真ん中に座っていた。
小さな市場跡の広場。
かつてここにあった声と音を、風の断片から拾い集めようとしている。
幸は近くの陰で警戒を怠らず、地面に伏している。
あやのの耳に、遠くから祭礼の笛が届いた気がした。
風が触れた瞬間にだけ、音が浮かび上がる。
その音の“通り道”を読み取り、あやのはノートに鉛筆でゆっくりと線を描く。
(……ここを風が抜けるとき、“記憶”が揺れる)
描かれていくのは、図面ではなく、音の座標。
誰にも読めない地図。
その集中の最中、後方から何かの視線を感じて、あやのはふと振り返った。
──現地の通訳兼研究者。若く、浅黒い肌の青年が立っていた。
「失礼。すこし、あなたの動きを観察していた」
「……どうぞ。気にしないで」
青年は近づきながら、ゆっくりと口にした。
「音の“地図”を描く人なんて、初めて見た。……でも、あなたは音だけでなく、“形”を持っている」
「形……?」
「風は、空間を撫でる。でもいま──君の身体に沿って、風が“溜まる”ように流れていた。
それは、音が“居場所”を選んでいるということだ」
あやのの喉が、少しだけ鳴った。
意味がわかるような、わからないような──だが、その言葉は確かに自分の変化と重なって聞こえた。
胸元を、風が撫でた。
スカーフの端が舞い上がり、
その下に隠されたわずかなふくらみを、青年の目線が一瞬だけ捉えた。
あやのは咄嗟にスカーフを押さえる。
(……見られた)
それは、恥ずかしいというより、初めて“他者に気づかれた”という震えだった。
胸が、かすかにきしむように疼く。
何かが宿っている。
何かが、目を覚ましていく。
夜、宿舎。
あやのはシャワーのあと、鏡の前に立った。
タオルの裾を片手で押さえ、
もう一方の手でそっと胸元に触れる。
(……こんなふうに丸くなるなんて、思ってなかった)
その曲線は、誰かの目に映るたび、少しずつ“重み”を持ちはじめている気がした。
唇のかたちも、呼吸も、指先の動きすら。
かつては音と共鳴するだけだった身体。
今では、音を**纏い、受けとめ、運ぶ“女性の器”**として形を持ち始めている。
幸がその足元に来て、すっと顔を上げた。
瞳が、鏡のあやのと、現実のあやのとを交互に見ている。
「……わたし、変だよね」
あやのは微笑み、しゃがみ込んで幸の首に顔を寄せた。
犬は何も言わず、ただその頬に舌を当てて舐める。
まるで、肯定するように。
翌朝。
あやのは淡い布地のチュニックを羽織った。
風を孕み、ラインが緩やかに揺れるそれは、彼女が今の身体で“呼吸しやすい服”だった。
梶原が待つ車両へ向かうその背を、通訳の青年が一瞬だけ見つめた。
──彼の胸のうちに、何かが芽生えた。
それは恋情ではない。
もっと根源的な、“存在への畏れ”に近い感情だった。
(この人は、“聴く者”じゃない。“呼ばれる者”だ)
あやのが描く音の地図は、徐々にその範囲を広げていく。
だが同時に、
彼女自身の**“身体の地図”もまた、誰にも知られず更新され続けていた。**




