第百二十章 砂の祈り、音の地図
飛行機を降り立った瞬間、あやのの肌に触れたのは、
乾いた空気の中にほんのわずか混ざった、焦げた石の匂いだった。
空は高く、日差しは遠慮なく降り注いでいる。
それでも風の質が、日本とも、ニューヨークとも、まったく違う。
音が遠くに行く土地だった。
「……音が、潜ってる」
そのつぶやきに、隣の梶原がわずかにうなずく。
「この土地の“音”は、過去に埋まってる。──あやの、お前じゃなきゃ、掘り出せない音だ」
あやのの足元を、幸が一定の距離で寄り添って歩く。
軽く巻いたスカーフが、胸元でふわりと揺れた。
(暑さ、だけじゃない……服が、身体に触れる感覚が前より“意識”に残る)
歩くたび、スカートの内側がふと脚にまとわりつき、
そのたびに、太ももから腰にかけてひそやかな熱が生まれる。
(……なにこれ、わたし、こんなだったっけ)
まだ言葉にできない、けれど確かに女のからだになっていく“感覚”が、服越しに知覚されていた。
到着先は、政府が秘密裏に保有する都市の地下。
かつて市場だった地面の下に、広大な反響空間が眠っていた。
中に入るなり、あやのは立ち止まり、両腕をそっと組んだ。
「……音が祈ってる。だけど、誰にも届かなかった」
壁のひび割れ、焼けた梁、残された床の模様。
そのすべてが、かつての生活と祈りと別れの記憶を封じていた。
あやのは静かに立ち、耳を澄ませた。
何も言わず、何も歌わず、ただ息をするように、そこに在る。
その姿を、現地の技術調整チームが遠巻きに見守っていた。
「……あれが、“建築する音楽家”か」
「彼女、思っていたより……ずっと若いな。いや……」
視線の端に、あやののスカーフが翻る。
細い首筋と、肩のライン、そして軽く浮いた胸の輪郭に、一人が目をとめた。
「……女なんだな」
言葉にされた瞬間、あやのはふっと振り向く。
誰とも目を合わせてはいないはずなのに、視線の熱に気づいたように。
(……見られてる)
その実感が、初めて、彼女の中に羞じらいをともなって降りてきた。
自分は“何か”を見せてしまっている。
声を出さず、ただ立っているだけなのに──“女”として、誰かの中に何かを生んでしまっている。
唇がわずかに震える。
けれど、逃げるようには立ち去らない。
(そうか……わたし、もう)
あやのはそっと胸元のスカーフを握り、
次の一歩を、静かに地面へ踏み出した。
幸がその後を、迷いなくついていく。
あやのの背中が、ひとつの地図を描くように揺れていた。
その夜、砂漠の町の簡素な宿舎で、あやのはシャワーのあと、
鏡の前に立ち、タオルの裾をふと直そうとして──
鏡の中の自分の胸元に、視線が吸い寄せられた。
輪郭が、はっきりしていた。
まだ小さく、誰にも気づかれない膨らみ。
けれどそれは、“女としての実感”を持つには十分な変化だった。
そっと、両手で包む。
じんわりと熱い。
肌が柔らかく、中心が、わずかに疼く。
その時、幸が足元から鼻先をのばし、軽く頬に触れた。
「……バレた?」
あやのは苦笑し、幸にそっと顔を寄せる。
(もう、戻れないんだろうな。あの、音だけだったころには)
だけどそれは、なぜか怖くはなかった。
外では、遠くのモスクから風に乗って、かすかな旋律のような祈りが聞こえていた。
音のない都市に、あやのという“音の芽吹き”が植えられた瞬間だった。




