第百十九章 AETHERの地図(カルトグラフ)
新たな指令が、静かに動き出した。
PROJECT: AETHER──都市の“音の重力”を測定・再編成し、世界の共鳴をひとつの地図へと描き変える、極秘プロトコル。
指定された初動地点は、中東某所の“沈黙した広場”。
かつて市場だったその場所には、砲撃による傷跡が今も残る。
人が集まらなくなって久しいが、風は吹き続け、空は高く、音の代わりに祈りの余韻だけが残っていた。
出発前夜。東京・出るビル。
あやのは荷造りを終えたばかりのトランクに手をかけて、静かに目を伏せていた。
あの空間にもう一度踏み込む覚悟はできていた。
けれど──自分の身体が、今やほんのわずかずつ、これまでと違う重みを持ちはじめていることに、心のどこかがざわついていた。
服を選ぶとき、自然とラインの緩やかなワンピースに手が伸びた。
今までなら、無意識に選んでいたズボンやシャツよりも、柔らかい布が肌にふれることの心地よさが、今日は大きく感じられた。
(これは“変化”なんだ。たぶん、わたしの“からだ”も)
鏡の前で、髪を軽くまとめてから留める。
顔立ちにはまだ幼さが残っていたが、まぶたの影が少しだけ深くなった。
唇の輪郭も、かすかに光を帯びて見えた。
まるで、花のつぼみがそっと膨らむ朝のように。
自分の内側で何かが始まり、しかし誰にも知られないまま進んでいく。
それは秘密のようであり、同時に、とても静かな祝福のようでもあった。
「……そろそろ空港へ向かうぞ」
梶原の声がドアの向こうから届いた。
「うん、いま行くね」
あやのはカーディガンを羽織り、トランクの取っ手を引いた。
だがその指先の動きも、数ヶ月前より細やかで、どこか女性の“気配”を纏っていた。
幸が足元でくるりと回って、鼻先を軽くあやのの膝にあてた。
まるで「知ってるよ」と言うかのように。
あやのは微笑んで、幸の頭を撫でる。
「……行こう、“音のない地図”を聴きに」
羽田空港、VIP出国ゲート。
司郎と吉田が見送りに来ていた。
「忘れないで、あやの。あんたは“音を集める耳”じゃないの。“音が眠る場所”を知ってるだけの存在よ。
だから誰よりも、**“沈黙に触れられる”**の」
「はい。……でも、きっとわたし、“聴かれる側”にもなるんだと思います。今度の現場では」
「……なるほどねぇ。ま、そういう顔になってきたわね」
司郎の目が一瞬、あやのの胸元に移り、それから何も言わずに口をすぼめた。
(……ほんとに、“芽吹いて”きてるわ)
誰も明言しないまま、
だが、彼女の存在はひとりの女性としての輪郭を帯びながら、静かに空へと舞い上がっていった。
機内、夜。
エコノミーの一角、特別に許可されたペットキャリーが足元に置かれている。
その中で、幸が静かに丸まっていた。
あやのは、その頭を撫でながら、ブランケットをかけ直す。
「……ねえ、幸。わたし、ちょっと変わってきたかもしれないね」
声に出した瞬間、幸がぴくりと耳を立てた。
ふだんは滅多に動じないその瞳が、ゆっくりとあやのの顔を見つめ、そして──鼻先を、彼女の胸元にふわりと寄せた。
あやのの指が止まる。
胸に、かすかな“痛み”とも“くすぐったさ”ともつかない感覚が走った。
「……わかるの?」
小さく笑いながら、あやのは自分の身体にそっと触れてみた。
まだ誰にも気づかれていないが、幸には、もうわかっている。
主人の体内に芽吹いた変化を──まるで、花の香りのように感じ取っているのだ。
(わたしの中で……“女”が目覚めようとしてる)
けれど、不安ではなかった。
幸がいる。それだけで、自分は“護られている”と感じられる。
その瞬間、幸があやのの手に鼻先を押し当て、静かに目を閉じた。
「……ありがとう」
あやのはキャリーの隙間から手を入れ、幸の首元を優しく撫でながら、ゆっくりと目を閉じた。
彼女の胸元に宿る“かすかなふくらみ”が、
眠りの中で、そっと波を打つように呼吸していた。
──誰よりも早く気づいたのは、愛しき忍犬だった。




