第百十八章 0dBの交響(シンフォニー)
オープン当日。
地下に造られた新施設 「Voiceless Core」 の内覧会は、事前告知もないまま、関係者限定で始まった。
来賓リストに名を連ねていたのは、建築家、音響設計者、音楽家、そして医師や心理療法士まで含まれていた。
誰もが、目の前の“音のない空間”に戸惑い、そして立ち尽くす。
天井も壁も吸音素材で包まれたその場所に、音響設備は存在しなかった。
スピーカーもない。マイクもない。
ただ、天井から下げられた一本の“糸”のようなマイクロチューブが、わずかに震えている。
「あれが、共鳴点です」
あやのの声が、わずかに響く。
「人がここに立つと、呼吸が建物に反響して、空気が“震えを返してくる”んです。
0dB──**“聞こえない音”で、都市が人に返事をする**ように設計しました」
司郎が付け加える。
「これはね、音響装置じゃなくて“音を待つ構造”よ。
都市が音を語るんじゃない、人が耳を澄ませることから始まるの。──その覚悟を、建築にしたのよ」
室内は無音のまま、しかしなぜか心拍が速くなる。
ここに入った誰もが、自分の中にある**“まだ言葉になっていない感情”**と対面してしまう。
それは不思議な体験だった。
一人の音楽評論家が、手記にこう記した。
「ここには“音楽”がない。だが私は、人生で初めて、自分が音楽そのものであると気づいた」
その夜、SNSには投稿があふれた。
けれど誰も、「何を聴いたか」をうまく説明できなかった。
「……音はなかった。でも、泣いてた自分がいた」
「何かが許された気がした」
「建築って、耳にも触れるんだな」
「#あやのの沈黙」
タグは瞬く間に拡散し、都市に“沈黙を聴く”という新しい感覚が芽吹き始める。
出るビル、深夜。
一同が打ち上げも兼ねた味噌鍋を囲んでいた。
司郎が酔いのままに言う。
「こんな変態みたいな設計、あの子がいなかったら絶対成立しなかったわよ。音を設計図にするなんて、誰が本気でやるのよ」
「でも成立しましたよ。日本の地下に、0dBの劇場ができたんです」
吉田が珍しく真面目に返す。
「設計者の名前、伏せられてますけど──もう、全部の業界が気づいてる。
**“真木あやの”って名前が、今の都市に響いてるって」
梶原は黙って、あやのの横で味噌汁をよそっていた。
幸はその足元で丸くなって眠っている。
「……でもさ、まだ“最後の音”は鳴ってないよね?」
あやのがぽつりと言う。
全員が静かになった。
司郎が、鍋の蓋をしめて、うんざりしたように言った。
「ええ、わかってるわよ。……あのプロジェクト、動き出したんでしょ? “世界案件”」
「……はい。“音の協定”。都市レベルじゃ済まない、世界全体の“共鳴条件”を設計するプロジェクト。
次は──日本だけじゃ、足りない」
その時、梶原のスマートフォンに一件の暗号化された通知が届く。
『PROJECT: AETHER PHASE_II|緊急ブリーフィング_発令予定地:中東』
幸が、耳をぴくりと動かした。
誰かが、あやのの“沈黙”を、また欲している。
出るビルの夜は静かだった。
打ち上げが終わり、皆が眠りについた頃。
あやのは、ひとり屋上のテラスにいた。
星は薄く、雲が低く流れている。
風が静かに、彼女の長くなった髪を揺らした。
白いパジャマの袖口を押さえながら、あやのは胸に手を当てた。
(……最近、なんだか苦しい)
その理由がわからなかった。
痛みではない。けれど確かに、身体の奥のどこかが、
ふとした拍子に熱を帯び、張るような感覚を覚えるようになった。
(これは……なんだろう)
かつてのあやのにはなかった感覚。
重力のかかる場所が変わり、下着の締めつけが意識に残る。
胸元にそっと手を触れると、わずかに硬さを含んだ膨らみが指先に返ってくる。
その変化は、誰の目にもまだはっきりとは映らない。
けれど本人には、それが**“目覚め”のようなもの**であることがわかっていた。
まだ蕾。
でも、たしかにそこに“芽吹くもの”がある。
風に混じる花の香りが、肌に染み入るように優しい。
この世の中のすべてが、少しずつ違って見えてくる。
頬を撫でる空気が温かい。
耳の奥で、まだ誰も鳴らしていないハミングの気配が、脈打つように響く。
「……もう、わたし……“子ども”じゃないのかもしれないね、幸」
足元にいた幸が、鼻を鳴らして彼女を見上げた。
その視線に、何かを見透かされたような気がして、あやのはくすっと笑った。
翌朝、あやのは鏡の前でそっとシャツのボタンを留めながら、
これまで選んだことのない淡いピンクのカーディガンを羽織った。
誰かのためではない。
自分のために。
鏡の中の彼女は、まだ少女の輪郭を残していた。
けれど、目元の影と唇の赤みが、たしかに“女”を知り始めたひとの光を帯びていた。




