第百十七章 沈黙都市(ミュート・シティ)起動
かつて、ここには言葉があった。
誰かの叫びや、機械のざわめきや、都市が生きていた証のような音が。
だが、今この場所は「沈黙」によって起動する。
都市音響再構築プロトコル──通称「ミュートシティ計画」。
発令されたその日、東京の片隅に眠っていた地下跡地が、正式に“国家音響特区”として選定された。
だが、そこに集まったのは、政府関係者でも、都市工学者でもなかった。
静かに、確実に──
出るビルから、人知れず現場へと動き出した設計者たち。
プロジェクト初日、現場仮設テント内。
「あんたたち、これは“デカい棺”作るんじゃないのよ。わかってる?」
司郎が大声で現場監督たちに怒鳴っている。
「音を閉じ込める建築なんて、誰だってできるわ。でも、あたしらが作るのは“耳が開かれる空間”!
響くんじゃない、“沈む”のよ!」
傍らで、あやのは静かに図面を広げていた。
そこには、設計情報の代わりに、ハミングの軌跡と、空気圧と、記憶の断片が記されている。
「……このライン、通る風の角度を変えたい。今のままだと、音が寝すぎる」
彼女のひと言に、吉田が即座にPCを操作し、梶原が構造変更をその場で指示する。
「補強材をずらす。階高が下がるが、あやのの空気感は残る」
「梁の位置も変えるわ。こっちが主旋律になる」
かつてない会話が、設計と施工の間で交わされていた。
それは図面ではなく、“感覚の旋律”によって構成された建築。
すべては、あやのの聴覚とハミングを基準に設計が進んでいる。
プロジェクト第3週目。
都市開発庁内での非公開説明会。
官僚たちが頭を悩ませていた。
「これ……構造的には成立してますが、音響的な根拠がどこにも……」
「基準法に適合してるようでしてない。だが崩壊もしない。これは……なにを見せられているんだ……?」
その場で静かに手を挙げたのは、ひとりの女性議員だった。
「──私は、彼女の動画を観ました。Silent Requiem、そしてResonance Hall。
あれは“音の建築”ではなく、“聴く人のための建築”です。
このプロジェクトを止める理由があるとすれば、それは……わたしたちに“聴く覚悟”がないということになるでしょう」
会議室が沈黙に包まれる。
そして、プロジェクト始動から45日後。
新たな空間が地下に姿を現した。
名前は、“Voiceless Core”
音がない。声もない。
だがそこに立った瞬間、誰もが**自分の中の“失われた音”**を思い出す。
それは歌かもしれない。
それは誰かの呼ぶ声かもしれない。
それは、かつて忘れてしまった、たった一度の「沈黙」の記憶かもしれない。
オープン前夜。
あやのは、梶原とともに、空になったスタジオの中心に立っていた。
「……ねえ、梶くん」
「ん」
「わたし、これが……最後の“沈黙”になる気がするの」
「……まだ何も終わってない」
「うん。──でも、始まる音が、聞こえた気がしたから」
梶原は何も言わず、ただそっと彼女の背中に手を添えた。
隣には、幸が目を閉じて伏せている。
耳を澄ませば、どこからか“無音のハミング”が始まっていた。
都市が、また一つ目を覚ます。




