第百十六章 図面無きプロトコル
「こんなの、建築図面じゃない……でも、確かに“構造”がある」
吉田透がつぶやいたその紙の上には、音符にも設計線にも見える不思議な“ハミング記録”が描かれていた。
あやのがEスタジオで発した“音のない音”。
それを、彼女自身の記憶──瞳による完全記憶から、手作業で一筆ずつトレースしたものだった。
設計者ではなく、奏者でもなく。
ただ、“空間に残された声”と対話する者として。
それはもはや、図面ではなかった。
だが、吉田は確かに感じていた。
これが「建築の種」であると。
出る事務所、地下の資料室。
かつて幽霊の倉庫と呼ばれていたその空間は、今や第二の設計ブースと化していた。
「このハミングデータ、圧縮解析じゃ無理だな。……俺が直接、構造に起こす」
梶原國護が低く言った。
目の前には、あやのの記録紙をデジタル化した画像と、解析不能と表示された無数のソノグラム。
「普通の周波数で扱えるもんじゃない。……あやのの感覚そのものが、すでに“構造”として成立してる」
司郎が背後からのぞき込み、黒縁眼鏡をクイッと上げた。
「面白いわね……“音”って、伝えるもんだと思ってたけど。これは“音で記録された無意識”ね」
彼は書類の山を片手で払い、白紙の大判用紙を広げた。
「やってみましょ。図面なきプロトコル──
言葉にも数式にもならない、でも“確かに在る”ものを、建築に置き換えるのよ」
「……言い出すと思った」
吉田が肩をすくめながら席に着く。
「ニューヨークじゃやらなかった手法だ。あの時の俺は、まだ都市を“静かにさせたかった”。今は逆だ……“都市に沈黙を聴かせたい”」
司郎がにやりと笑った。
「成長したじゃない。あの時は『建築家なんて政治家の手下だ』なんて言って飛び出したくせに」
「それは今も思ってる。……でも、真木さんが都市にいる限り、話は別だ」
ふっと、静まりかえった。
そのとき、階段から足音。
あやのがゆっくりと降りてきた。
幸がその後を、静かに従う。
「……図面、起こせました」
彼女が差し出した一枚の紙。
そこには、誰も見たことのない“構造”が描かれていた。
グリッドでもない。パースでもない。
ただ、音が歩いた軌跡のような線たち。
司郎はそれを手に取り、しばらく見つめたのち、言った。
「──これが、“都市の記憶”ってわけね」
翌朝。
官邸サイドから出るビルに正式な書簡が届く。
「都市音響再構築プロトコル」への参加指名。
名称は伏せられていたが、明らかにあやののハミングを起点にした設計が、“国家仕様”として採用されたことを意味していた。
「さあ、みんな。やるわよ」
司郎が笑う。
「都市の沈黙を、あの子の音で“再構築”する。これはもう建築じゃない、**都市に対するハミングの回答**よ」
あやのが少しだけ笑い、手帳に書きつけた。
都市は、耳を持つ。ならば、私は唇を。




