第百十四章 沈黙する設計図(ダイアグラム)
旧・第五都市通信局跡地。
その場所には、すでに記録が存在しない“音”が漂っていた。
地中深く、戦後に敷設された地下スタジオ跡。
かつてここでは、国家機密級の「無線干渉検知」や「都市騒音の封印」などが行われていたと噂されている。
だが今、その痕跡はわずかな振動、残響、そして劣化した壁面に刻まれた奇妙な符号のような“線”として残るのみだった。
あやのは、床の割れ目に手を触れた。
「……感じる。消された音が、まだここにいる」
幸が鼻を鳴らし、あやのの隣にぴたりと寄り添う。
吉田透は、距離を取ってその様子を見ていた。
静かな沈黙のなかに、何かを“読み取る”彼女の感性を、じっと観察している。
「……設計図は、君が描くしかない」
ぽつりと、彼が言った。
「音響技師じゃ無理だ。建築家でもない。音楽家でもない。ただ……この沈黙を理解できる人間じゃなきゃ、ここに“音”を建てられない」
あやのは手を止めて、ふと吉田を見つめる。
「……じゃあ、吉田さんは?」
「俺はただの“翻訳者”だよ。この空間に眠る声を、図面に起こすための──君の伴奏者」
その目は、どこか穏やかだった。
その日の夜、出るビルの事務所には、いつものように灯りがついていた。
司郎が設計机に座り、鼻眼鏡で資料を読み込んでいる。
梶原は隣で、仮設構造と音響材の組み合わせをシミュレーションしていた。
「あやのが、また“無茶な場所”拾ってきたわよ」
司郎がぼやく。
「古い通信局跡……残響と干渉波で壁が崩れてもおかしくない。完全密閉構造なんて、現代じゃ逆に設計しにくいのよ」
「……でも、やるんだろ?」
梶原は淡々と返す。
「“音を再建する”ってのは、破壊じゃない。あの子はきっと、まだ“何か”を聴いてる」
司郎は、湯飲みを持ち上げ、ため息をつくように言った。
「──まったく、あの子がいなかったら、わたしたちの建築なんて“図面の屍”よ」
深夜0時を過ぎた頃。
出るビルの屋上テラスで、あやのは一人、空を仰いでいた。
幸は彼女の足元に丸まっている。
空は曇っているが、時折、雲の切れ目から星が顔を出す。
「あの場所に、どんな音を生むのか……」
あやのは胸の奥で、静かに自問していた。
Silent Requiemではなかった。Resonance Hallでもない。
これはまた、“第三の音”の始まりだった。
梶原が、黙ってそばに現れた。
「風が冷たい。中、戻れ」
「……うん。でも……少しだけ」
「……ついてる」
幸がくしゃみをした。
その音に、あやのはそっと笑った。
「また、始まるね」
梶原は答えなかった。ただ、小さく頷いた。




