第百十三章 その犬、ただものではない
ある雨上がりの午後。
出るビルの屋上テラスに、あやのと幸の姿があった。
ふわりと吹く風に、あやのの真珠色の髪がそよぐ。
その隣に、静かに伏せている黒毛の犬──幸。
その光景は、たまたま撮影に訪れていた建築誌のカメラマンの目に留まり、
1枚の写真としてSNSにアップされた。
投稿内容:
【奇跡の声なき音楽家、帰国後初のショット】
テラスに佇む彼女と“謎の黒犬”──
この静けさが、日本の都市にある奇跡かもしれない。
@archi_snap_tokyo
#真木あやの
#silentarchitect
#忍犬?
#出るビルの奇跡
24時間後──
**「あの犬は一体?」「仕草が軍用レベル」「犬だけど礼をしてる」「あやのちゃんの護衛?」**といったコメントがSNSにあふれかえる。
一部の愛玩動物マニアからは「伝説の“忍犬幸”」「人語を解す犬」「魂が読まれている気がする」など、過剰なまでの評価が飛び交う。
もちろん、あやの本人は知らぬ顔で出るビルの掃除中だった。
「あの……なんかネットがざわついてますけど……」
とスタッフのひとりが言うと、司郎が味噌汁を啜りながら答える。
「ふん、そりゃそうよ。うちの子と一緒に暮らしてるんだもの、動物だって“進化”するわよ」
「いや、進化って……ポケモンじゃないんですから」
「それより問題は、こっちの予定よ。また依頼が増えてるわ。国内案件がごっそり。名前を伏せた“音響実験施設”の公募、どうやら国の仕掛けっぽいわね……」
司郎の視線が、ふと横の男に向く。
梶原國護。
黙々と図面資料を読んでいるが、その目は鋭い。
「アンタ、先回りして動いてたわね。どこまで情報取ってるの?」
「……音の協定が、都市レベルで再構築されるって話がある。あやのの感性が、もう一度問われる場所があるってことだ」
「はあ……ほんっと、落ち着く暇がないわね……」
司郎は天を仰ぎ、肩をすくめる。
「でもまあ、やるしかないでしょ。うちは“棺”じゃない、“生きる建築”を作るんだから」
そして、彼は茶碗を置いて言った。
「──あやのには、また最前線に立ってもらうわよ。あの子のハミングで、都市の沈黙を解く。それが、次の仕事よ」
「……あの子は、もう覚悟ができてるわよ」
司郎のその言葉に、静かな同意の気配が広がった。
雨上がりの午後、今は晴れ間が広がり、屋上テラスでは光が濡れた床をきらめかせていた。
遠くから鳥の声がする。
あやのは、掃除用具を片付けながら、ふと振り返った。
幸が静かに立ち上がり、ぴたりとあやのの左側に寄り添う。
「……幸、行こっか」
声はほとんどささやきだったが、犬は確かにそれを理解していた。
二人は誰に見せるでもなく、そっと階段を下りていった。
その様子を、ガラス越しに見ていた司郎がふっと笑う。
「さすがに、あの犬は“読んでる”わね。人の心を、ちゃんと」
梶原が、視線を上げることなく呟く。
「……訓練したからだ」
「ふうん……“愛”の訓練ってわけ?」
司郎が軽く茶化すと、梶原はほんの少し、唇の端を上げた。それだけで、彼にとっては充分だった。
⸻
数日後──
都心の一角、古びたコンクリートの建物の取り壊しが予定されていたエリアで、急遽「音響実験施設」の計画が発表された。
公式な名称は明かされないが、内部資料には次のように記されていた:
「静音・残響・共鳴を“建築”によって記録・制御・再構築するプロジェクト」
対象地:旧・第五都市通信局跡地
主設計候補:非公開(ただし、“特異聴覚保持者”の関与が明言されている)
この曖昧な記述が、逆に火をつけた。
SNSでは、“あやのちゃんまた何かするらしい”というタグが生まれ、さらに謎の犬・幸の再登場が期待され、次第に「出るビル現象」とも呼ばれる都市伝説がひそかに盛り上がっていく。
⸻
ある日、あやのは新たな現場予定地の下見に向かっていた。
薄曇りの空。足元には幸。
現場ではすでに、警備と仮設の足場が組まれていた。
その前に、スーツ姿の人物が一人、待っていた。
銀縁眼鏡。目は笑っていないが、どこか知的な色気を帯びている青年──吉田透だった。
「……おかえり、真木さん」
彼はあやのの前に、少しだけ姿勢を正す。
幸がピタリと動きを止め、じっと彼を見た。
吉田はそれを見て、珍しく眉を上げた。
「……なるほど。これが“例の忍犬”か。……冗談抜きで、圧を感じるな」
「──久しぶり、吉田さん」
あやのは微笑んで言った。
都市の喧騒から離れたその場で、また新たな“静けさの中心”が動き出そうとしていた。
すべては、次の“音”のために。




