第百十二章 お犬様 vs おじさん霊
翌朝。
出るビルの階段に、なにやら重たい沈黙が漂っていた。
山形さん(エレベーターの地縛霊/おじさん)、異様に警戒した表情で壁の中からチラチラと覗いている。
「……ねぇ、あの犬、ただの犬じゃないよね?」
田中さん(踊り場のサラリーマン霊)がスーツの袖を震わせながら呟く。
「(ブツブツ)あの目……完全に見えてる……こっち見てる……」
トイレの太郎くん(癒し系少年霊)はすでに心を掴まれた様子で、廊下の隅からちょこんと手を振っていた。
「幸ちゃ〜ん♡ おはようございますっ」
忍犬・幸は、玄関で軽やかに振り返ると、
パシッと一礼するように前足をそろえ、太郎くんに向かって静かに目を細めた。
山形さんは、完全にびびっていた。
「ちょ、なにあれ!? 犬じゃないでしょ! アレ、忍者だよ! 訓練されすぎてる! なんかおじさんの死角を全部読んでる顔してる!!」
司郎がキッチンから顔を出す。
「朝から何騒いでんのよ。あれはあやのの新しいボディガードよ。
梶原が“メスしか認めない”とか言い張ってね。うるさいのなんの……でも超優秀」
「いや優秀とかじゃないのよ司郎さん、あの犬──たぶん、あたしら霊が見えてる」
その瞬間、幸がスッと首を巡らせて──
**エレベーターの天井付近、山形さんの“霊の定位置”**をじっと見つめた。
「ぎゃあああああああああぁぁぁぁ!! バレてるぅうううううう!!!」
エレベーターの扉がバン!と閉まり、山形さんの幽霊が電子音を鳴らしながら暴走運転を始める。
あやのが、幸を撫でながら笑う。
「……なんで山形さんだけ、こんなに警戒されてるのかな」
「そりゃ……ねぇ?」と司郎が肩をすくめる。「たぶんこの子、性的な目で見たかどうかも嗅ぎ分けてるわ」
「それ、山形さん完全アウトですね」
山形さん、壁の向こうで「ぐわぁああああん!!」と悲鳴。
幸、前足クロスで“無言の圧”を発しながら静止。
その後、出るビルの地縛霊たちに護衛犬・幸が“見えている”ことは、暗黙の事実となった。
そして誰も、もうあやのの部屋の周囲に不用意に現れようとしなくなった。
トイレの太郎くんは、時折フリスビー遊びをしてもらっているらしい。




