第百十章 うちの子に手ェ出したわね!?
出るビルの朝。
まだ陽が昇りきる前の、薄ぼんやりとした空気の中。
3階の事務所キッチンに、いつものように味噌汁の香りが立ちこめていた。
司郎正臣は、割烹着姿で湯気の中に立っている。
だがその顔には……不穏な第六感が全開だった。
「……なーんか嫌な予感するのよねぇ……」
木べらをくるくる回しながら、ピリピリと周囲の空気を探っていた。
その時──
「あやの、朝だよ」
「ん……おはよう、梶くん……」
上の階から、やけに優しい声色のやり取りが聞こえた。
……カチッ。
司郎の手が止まり、目元の眼鏡がギラリと光る。
「……えぇ~~~? 今、“梶くん”って言ったわよねぇ~~!? いつから“くん”付け解禁したのかしらぁ~~!?」
エプロンを脱ぎ捨て、味噌汁を吹きこぼす暇もなく階段を駆け上がる。
**バン!**と勢いよく開かれた4階のドア。
そこには、並んで布団をたたむあやのと梶原の姿。
あやのの髪は少し乱れており、梶原は妙にスムーズな動きでタオルを畳んでいた。
司郎は腰に手を当てて叫んだ。
「うちの子に手ェ出したわねぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!」
梶原、床に正座。
あやの、箸を持ったまま凍結。
「えっ……ま、まだなにもして……っ」
「してなくてもしてる顔してんのよ!! この“朝の余韻”感、何よこれ!? 何が“あやの”で“梶くん”よ!! パリの水はふたりを潤わせすぎでしょ!!」
司郎は床をドンと踏み鳴らす。
「アンタ、責任とる覚悟あるの!? 婚姻届の見本渡しとこうか!? 役所の地図も描いとく!? ついでに名字交換会でもする!?」
梶原、魂が抜けかけながら返す。
「す……すみません、でも、ちゃんとあやのさんに向き合って──」
「“あやのさん”? 今、“さん”って言った!? “くん”返し!? なにこの両想いカスタム!!」
あやのがとうとう声を上げる。
「し、司郎さん! からかわないでくださいっ……! そ、そんなに……まだ……」
「まだ!? ってことはこれからなの!? うっわ、出た、“まだ”発言! それはほぼ“そのうち”って意味じゃないのよぉ!?」
地縛霊たちも騒ぎ出す。
「トイレの太郎くん」:「けっこん!けっこん!」
「踊り場の田中さん」:「(ブツブツ)やっと両想い……いいな……オレ、まだ壁……」
「山形さん(おじさん)」:「そうよ梶原くん、責任ってのはなァ、いざってときに逃げないってことよォォォ!! おじさんは泣いてるからなァァァァ!」
あやのは、顔を真っ赤にしながら立ち上がった。
「……もう、みんなまとめてうるさいです……!!」
その声に、全員ぴたりと黙った。
司郎はしばし沈黙し、深く息を吐く。
「……まあ……いいわ。あたしが認めたんだから、もう誰にも文句は言わせない」
あやのが驚いて目を見開く。
「司郎さん……?」
「ただし条件がひとつ。あたしが死ぬまで、あんたたちには“毎朝味噌汁を食べに来る義務”があるわ」
梶原はまっすぐ頭を下げた。
「はい。……それは、こちらからお願いしたいくらいです」
「うるさい。黙って味噌汁飲め」
その朝、4階の食卓には、ちょっとだけ甘い香りが混じっていた。




