第百八章 教授、黙って泣く
翌日昼。
出るビルのドアが、重く、ギィと音を立てて開く。
「おーい、どこぞの世界的ハミング娘はここかぁ〜」
威風堂々と登場したのは──建築界の重鎮、澤井教授。
年季の入ったグレースーツに、巻き煙草の香り。
誰よりも早く司郎の才を見出し、今でも事あるごとに顔を出す**“出る事務所の祖父的存在”**である。
「……あやのちゃん、おぉ……よう帰ってきたな」
玄関先で彼女の姿を見つけた瞬間、
教授の目尻が一気に下がった。
「んまあ! どうよその立ち姿!こら司郎、おまえんとこの子、化けたどころか“神話の器”になっとるやないかい!」
「でしょ? あたしの教育の賜物よ」
司郎がすかさず鼻を鳴らす。
「……ふざけるな、あの子がここに来たとき、玄関で転んで水まんじゅうみたいな顔してたの覚えてるわ」
「その例えやめてくれる!? 食べる気失せるから!」
あやのは小さく笑って、教授に頭を下げた。
「お久しぶりです。帰ってきました」
「……あぁ。よく、無事で。
……ようやった、ほんまに」
教授は、何かを言いかけて、言葉を呑んだ。
その目が、わずかに潤んでいるのを見て、
司郎も、茶を持ってきた手を止める。
「……あれ、泣いてる?」
「泣いてへん! 目にコショウが入っただけや!」
「誰がスパイス炊いたのよここで!」
澤井教授は咳払いして、ズカズカとテーブルへ向かう。
「しかしまぁ、こんな日が来るとはな……
“言葉なき音楽”で、世界の舞台に立った子が、うちのカウンターで味噌汁飲んでるんやもんな……なんちゅう贅沢や」
梶原が笑う。
「おかわり、いかがですか?」
「おう。ついでにあやのちゃんの分もな。
……そのうち、建築学会でも“無音設計論”の研究始まるで、間違いなく」
その場にいた全員が、静かに頷く。
司郎はふいに、真面目な口調で言った。
「この子の音は、建築の限界を超えた。でもそれを成立させたのは、環境と仲間よ。あたしたちはチームなの」
「──チーム、か」
教授は、あやのを一瞥し、そっと笑った。
「そのうち、もうひと山ふた山くるぞ。覚悟しとき」
「……はい。もう、大丈夫です」
その声は、決して張り上げてはいないのに、
空間にスッと染み込むような響きを持っていた。
その瞬間、トイレの太郎くんがガッツポーズ。
山形さん(おじさん霊)は「くぅ〜〜泣ける〜」と叫んで廊下を転がっていた。




