第二十章 梶原、資格を取る
出るビルの一階、まだ陽の届かない早朝。
黒々とした静けさの中に、パソコンの起動音が響いた。
「……電源、入った」
梶原國護は、ほっと胸をなで下ろす。
機械が苦手な彼にとって、これだけでもちょっとした勝利だった。
卓上のLEDライトの下には、参考書が三冊。
「建築施工管理技士」「第二種電気工事士」「土木技術基礎」。
ページの端は折れ、蛍光ペンが何本も並ぶ。
彼は無言のまま椅子に座り、太い指でページをめくった。
ノートには、几帳面な文字でびっしりと「計算」と「記述」が書かれていた。
* * *
彼が資格を取り始めたのは、仙台から東京へ出てきたばかりの頃。
あやのに追いつきたかった――ただ、それだけだった。
あやのはなんでも出来た。
料理も、裁縫も、設計図の整理も、音楽も。
梶原から見れば、空を飛ぶ鳥のような存在だった。
だけど、彼は地を歩くしかない。
言葉は少なく、気持ちを表現するのも下手で、不器用だった。
それでも、彼なりに考えた。
「……資格、あれば、あやのの力になれる」
あやのが「何かをやりたい」と言ったとき、それを実現するには「許可」が要る。
工事するには届け出が必要で、現場には監督が必要で、配線ひとつ引くにもルールがある。
なら――自分が全部持てばいい。
* * *
あやのは最初、気づかなかった。
梶原が朝の三時に起きて勉強していることも、
昼休みに参考書を開いて黙々とノートをとっていることも。
でもある日、ふとしたことで見てしまった。
「……これ、全部? 梶くんの?」
リビングに積み上がった参考書の山。
施工管理、電気、衛生、造園、CAD、消防法、建築士試験の過去問――
その異様な量に、あやのは一瞬、目を見開いた。
梶原は「うん」とだけ答えた。
あやのはその山の一番上に置かれていたメモをそっと拾った。
「2025年中:施工二級合格、電気取得、次:衛生管理」
「2026年中:建築士一次→二次突破」
「……すごい、ね」
あやのの声には、尊敬と少しの戸惑いが混ざっていた。
「……全部……あやのの、となりに……いたいから」
それだけを言って、梶原はそっと背中を向けた。
不器用に、だけど確かな手で参考書を開いた。
あやのは何も言わなかった。
ただ、小さく深呼吸して、一度だけ頭を下げた。
「……ありがとう、梶くん」
その声は、彼の背中にちゃんと届いていた。
* * *
夜――
出るビルの屋上。
東京の空は高く、音が遠い。
梶原はひとりで空を見上げていた。
手には、小さな資格証。
「第二種電気工事士 合格通知」。
何枚目になるかもう分からない。
けれど、どの一枚も――あやののために、と思って取ったものだった。
ビルの屋上で風が鳴る。
遠くで、誰かのピアノの練習が聞こえた。
それを聴きながら、彼は静かに次の参考書を開いた。
「……次は……消防法……」
呟いた声は低く、だが揺るがなかった。