第百七章 おかえりなさい、出るビルへ
東京の外れ、煉瓦造りの4階建て。
風に晒された表札には、うっすらと「司郎デザイン」の名。
そしてその下に、紙が一枚貼られている。
「おかえり、あやのちゃん by トイレの太郎くん」
夕暮れの静かな住宅街。
そこに、タクシー一台が静かに停まった。
降り立ったのは、真木あやのと梶原國護。
「……やっぱり、ちょっと懐かしい」
「……うん」
見上げるレンガの壁。古びた窓。
何も変わっていないのに、どこか柔らかく見えた。
玄関を開けると、まず聞こえてきたのは──
「ぉ゛お゛お゛お゛かえりぃい〜〜……!」
妙に湿った呻き声と、スーツ姿のサラリーマン霊──踊り場の田中さん。
過労死したという噂の彼は、今日もブツブツ独り言を呟いている。
「……田中さん、元気そうでなによりです」
「うん、むしろ生きてた頃より元気かもな」
二人は軽く会釈して階段を上がろうとしたが──そのとき。
ギィィ……ギギィ……
無人のエレベーターが、勝手に動き始める。
「……来たぞ」と梶原。
ゆっくりと開いたエレベーターの中から、
スーツ姿に若干よれたネクタイを締めた中年のおじさんが、にやりと笑って出てきた。
**山形さん(エレベーターの地縛霊)**である。
「おおおおお〜〜!! あやのちゃああん!! ついに帰ってきたのねぇぇ〜!!」
「山形さん、近いです近い……あと声がでかい……」
「いや〜〜〜ちょっと見ないうちに……え、なに、なんか色っぽくなってない!? なにそれ!!どこで覚えてきたの、その空気!!」
「……パリです」
「あ〜〜〜パリィィ!? パリの空気吸ったらそんな美人になっちゃうの!? え、キスとかした!? したでしょ!? したって顔だよ!?なぁ!?」
梶原が小さく前に出て、山形さんを軽くかわす。
「すみません、あやのは疲れてるので。道あけていただけると……」
「ぬっ、ちょっとぉ、あんた何者よ!? あ、梶原くん!? 噂の!? キーッ!! もう結婚すればいいのに!!」
「……おじさんの霊って、しつこいな」
「そうなの。うるさくて、でもちょっと安心する」
ようやく3階へたどり着くと、
司郎の怒号が飛んできた。
「うちのビルに近所迷惑なラブコメ持ち込まないでくれる!? 山形さん、さっさと持ち場に戻りなさい!」
「ひどい〜〜歓迎ムードが足りない〜〜!」
司郎はキッチンから頭を出し、あやのたちを睨みつける。
「ほら、洗面所行って顔洗ってらっしゃい! お昼の味噌汁がのびるわよ!」
テーブルの上には、おにぎり、煮物、ぬら爺からの山の幸──
そして、居場所の味が並んでいた。
あやのは、そっと座り直して、手を合わせる。
「──ただいま」
その声に、山形さんが廊下の奥でこっそり涙ぐんでいた。




