第百三章 目覚めはまだふたりの中に
窓の外では、パリの朝が始まっていた。
路面電車の音、バゲット屋の開店準備、新聞配達の自転車。
けれど、あやののアパルトマンの中は、まだ“夜の続き”のような静けさに包まれていた。
キッチンからは小さな音。
あやのが、ゆっくりと紅茶を淹れていた。
(……ちゃんと、眠れてた。わたしも、梶くんも)
けれど身体の芯に、かすかに残っている熱がある。
唇がまだ、昨日の記憶をそっとなぞるように、熱い。
リビングに入ってきた梶原は、少し髪がはねていた。
無造作な寝癖すら、あやのにはどこか新鮮に映る。
「……おはよう」
あやのがそっと言うと、梶原は少しだけ照れたように頷いた。
「……おはよう、あやの」
ふたりの間に流れる、微妙な沈黙。
でもその沈黙は気まずいものではなく、
「なにかが変わったことを、まだ言葉にしたくない」、そんな甘い温度を帯びていた。
紅茶の湯気の向こう。
あやのが静かに笑った。
「……ね、あの、変なこと訊いてもいい?」
「うん、なんでも」
「……わたし、ちょっとは“女の子”に見えてた?」
梶原は驚いたように目を見開き、少し笑った。
「“ちょっと”どころじゃない。
昨日、キスしたとき──俺の中じゃ、あやのはもう完全に“ひとりの女性”だった」
その言葉に、あやのは思わずテーブルに頬を伏せる。
「……言わないで。恥ずかしい」
「……でも俺、嬉しかった」
そのときだけ、あやのの肩が小さく震えた。
照れ、喜び、戸惑い、全部を受け止めるように──
梶原はそっと、彼女の頭に手をのせた。
「今日も、“あやのの味”が食べたいな」
「……もう、ばか……」
声は震えていたが、頬の上には確かな笑みが浮かんでいた。
その朝、あやのはふわりと髪をまとめてキッチンに立った。
その仕草は、どこまでも自然で、どこまでも“誰かのために生きる”人のものだった。
少女から、誰かに愛される“女性”へ。
変わる必要はなかった。ただ、受け入れるだけでよかった。
その変化を知っているのは、まだふたりだけ。
朝の光が、カップの中の紅茶に優しく溶け込んでいた。




