第百二章 灯りをともす指先
夜が深まる。
柚子茶の湯気は消え、灯りの色だけがまだ、ふたりを包んでいた。
梶原は、あやのの手を包んだまま、何も言わずにいた。
その無言が、どこまでも優しかった。
あやのの心臓が、少しずつ速くなる。
鼓動が指先から伝わってしまいそうで、手をほどこうとしたが──
「……待って」
梶原の低く、けれど確かな声に、あやのの動きが止まる。
「……あやの」
その名を呼ばれたとき、いつもとは違う重みがあった。
呼吸の仕方すら、忘れそうになる。
梶原は、そっと問いかけるように言った。
「……いま、少しだけ時間を止めてもいい?」
あやのは、戸惑いながらも頷いた。
梶原はゆっくりと、もう片方の手であやのの髪に触れた。
真珠色の髪が指にほどけて落ちる。
「俺は、最初からずっと……あやのが特別だった」
「梶くん……」
「でもそれが、ただの憧れとか、守りたいって気持ちなのか、ずっとわからなかった。
でも、今日……あやのの作った味を食べた瞬間、全部わかったんだ」
あやのの頬が、熱くなる。胸の奥で、何かがほどけていく。
「俺は……あやのを、ひとりの女の子として好きだ。
ちゃんと、ちゃんと恋してるって、はっきり気づいた」
その言葉は、静かに、あやのの胸に落ちた。
ぱちん──と、何かが灯るように。
あやのは、長い沈黙のあとで、震える声で言った。
「……こわいの、すごく。わたし、そんなふうに誰かに見られること、ずっと避けてきた」
「わかってる。でも……あやののままで、好きになったんだ」
次の瞬間。
あやのの身体がふわりと前に傾き、梶原の胸に額を寄せる。
「……ありがとう。
いま、あなたの前なら……“女の子”でいても、いいって思える」
梶原は、そっとあやのの頬に手を添えた。
そして、目を閉じた。
あやのもまた、目を閉じた。
ふたりの唇が、やわらかく触れた。
一瞬、それは風のように繊細で、けれど確かに、熱をもった交わりだった。
──そのとき。
あやのの内側で、何かが静かに変わりはじめていた。
生まれたままの透明な心が、ゆっくりと色づいていく。
少女ではなく、“誰かのために生きる女性”としての目覚め。
髪が、わずかに伸びたように揺れる。
瞳が、光を抱くように潤む。
声が、いつもより少しだけ、高くやわらかく震えた。
それは、誰にも強いられたものではなかった。
ただ、あやのが自らの意思で、愛されることを受け入れた瞬間だった。
「……好きだよ、梶くん」
その言葉に、梶原はあやのをそっと抱きしめた。
もう、ふたりの間に迷いはなかった。




