第百一章 あなたのために火を焚く
夜も更けたパリのアパルトマン。
リビングにはまだ、柚子と味噌の香りがほのかに残っている。
洗い物を終え、あやのはダイニングのソファに腰をおろした。
キッチンの灯りだけが柔らかく灯り、街の音は遠い。
その静けさの中、梶原がマグカップをふたつ手にして現れる。
ひとつはあやのに、もうひとつは自分の膝にのせて。
「……柚子茶。あったまる」
「ありがと」
あやのはマグを両手で包みこみ、ほんのり熱に頬を染める。
窓の外では風がやんでいた。
まるで、何か大切な時間のために、空気さえも息をひそめているように。
「……ねぇ、梶くん」
「うん」
「さっき、“あやのの味”って言ってくれたでしょ」
梶原は少しだけ驚いたようにあやのを見て、それから静かに頷いた。
「うん。すぐわかった。食べた瞬間、なんだか……あやのの手のぬくもりみたいな味がして」
あやのは少し恥ずかしそうに、笑った。
「……変な味じゃなかった?」
「ううん。たぶん……世界でいちばん好きな味になった」
その言葉に、マグカップのふちから、そっと湯気が揺れる。
あやのは目を伏せて、ぽつりとこぼす。
「わたし、うまく言葉にできないんだけど……。
ときどき、こうしてふたりで静かな時間を過ごしてると、なんか、泣きたくなるの」
梶原は何も言わず、あやのの隣に座った。
「嫌な涙じゃないの。ただ、胸の奥に何かがとけていくような、安心する涙。……それが、ちょっと怖くて」
梶原は、自分のマグを置いた。
そして、そっとあやのの手に、自分の手を重ねた。
「怖くないよ。……あやのが怖がる時は、俺がそばにいるから」
あやのは、しばらく何も言わなかった。
けれど次の瞬間、小さな声で──本当に、小さく──こう囁いた。
「じゃあ、もうちょっとだけ……ここにいてくれる?」
「もちろん」
手をつないだまま、時間が溶けていく。
言葉がいらない夜だった。あやのの鼓動が、静かに梶原に届いていた。
そして、ソファの上。
ふたりの間にただひとつ、火を焚いたようなあたたかさが残った。
その夜、あやのは初めて、ぬら爺からもらった“ぬくもりの味”を、
誰かのために再現しただけでなく──共有することができた。
火は、つながっていた。




