第百章 湯気の向こうに山の里
午後の光が、アパルトマンのキッチンに斜めに差し込んでいる。
あやのは、ひとり黙々と台所に立っていた。
その表情には、いつもの涼やかさとはまた違う、
どこか遠い記憶を辿るような、懐かしさのにじむ静けさがあった。
「……味噌は、麦と米を半々。塩は強め。
水加減を間違えると、山の冬には負けるから」
言葉にしなくても、手が全部を覚えていた。
戸棚の奥から、ぬら爺がくれた“黒曜の小鉢”を取り出す。
それは不格好で、歪んでいて、でも、どの器よりもあやのの味を知っているものだった。
梶原が静かに覗く。
「……何を作ってる?」
あやのは、くるりと鍋の蓋を開けながら答える。
「“ぬら爺の便りの返事”」
鍋の中には、根菜と干し魚の煮物。
白味噌の下に、焦がしにんにくと柚子の皮を少しだけ。
味の奥に、懐かしい“山の匂い”が湯気となって立ち上る。
「“香りの手紙”って、ぬら爺は呼んでた。
言葉じゃなくて、鼻と舌で届く手紙」
梶原は静かに、うなずいた。
あやのが差し出した小椀を、両手で丁寧に受け取る。
ひと口。
「……あ、うまい」
「でしょ。これ、ぬら爺が“おめぇはこれしか作れん”って怒鳴りながら教えてくれたやつ。
気づいたら、もう身体が覚えてて……ふふ、悔しいなぁ」
あやのは、ほんの少しだけ目を潤ませて笑った。
梶原は椀を置いて、ことば少なに言う。
「……あやのの味、だな」
その言葉が、あやのの心の奥にまっすぐ届いた。
「ねぇ、梶くん。これ、もう少し作るから──明日、司郎さんたちにも出していい?」
「もちろん」
夜。
パリの食卓には、見たことも聞いたこともない“山の味”が並んだ。
司郎はひと口食べて言う。
「……何これ。魂にまで沁みるわね。うちの事務所の公式非常食にするわよ」
ヘイリーは泣きそうな顔で叫ぶ。
「これね、冬が来る前に絶対食べたいやつ! 美味しすぎるでしょ!」
あやのは、笑いながら鍋を見つめた。
そしてその夜、彼女は便箋に短く一行だけ書いた。
爺、あの味、ちゃんと身体に残ってました。
パリでも、ぬら家の台所は元気です。
こうして、風のない街の夜に、小さな山の里が一つ、開いた。




