第九十九章 遠き日の台所より
パリのアパルトマン。
あやのは朝食の片付けを終え、テーブルの上の封筒に気づいた。
差出人欄はない。けれど、文字を見れば一目でわかる。
──ぐにゃぐにゃとした筆致。
墨で書かれた、なんとも言えぬ情念。
封筒の匂いは、梅干しと味噌と、山の朝靄。
「……ぬら爺からだ」
封を開けると、中には羊皮紙のような紙に、どこまでも勝手気ままな筆で書かれた便りが詰まっていた。
よぉ あやの
おめぇ、まだ生きてるか。
生きてるなら返事はいい。だいたい生きてる奴はな、返事なんぞ出さん。
おめぇがどっかの氷の上で風と話してると聞いて、わしも山の風と話してきたが、
どうも向こうはせっかちで、話の腰を折りよる。
こないだ山のカジカが「おなごの歌が降ってきた」と鳴いておったが、
あれはおめぇの声じゃろう。
遠い風がここまで運ぶとは、なんとも罪深い。
それからな──
田の神様が「そろそろ嫁に行く頃じゃろ」とかほざいておる。
うるせぇわ。まだまだガキじゃ。
わしにとっては、ずっと台所で味噌をなめとるちびっこじゃ。
だがな、あやの。
おめぇがどれだけ遠くに行こうが、
おめぇの声と足音は、ちゃぁんと、この里に残っとる。
風が鳴くときゃ、耳をすませ。
火がはぜるときゃ、目を細めろ。
忘れてもいいが、思い出すのは許さんぞ。
あと、ちゃんと飯食え。冷えた身体は、声も出ん。
ぬらりひょん
(さっき転んで尾てい骨を打った)
読み終えたあやのは、ふっと笑った。
目頭が熱い。けれど、笑った。
傍らで梶原が小さな声で訊く。
「……その人、どんな人だった?」
あやのは答えず、封筒を握ったまま立ち上がった。
「……ぬら爺は、魔法も使えないし、呪いもかけないけど。
あたしの全部を知ってて、何も言わずに茶碗を出してくれる人」
梶原は、あやのの背中を見つめる。
その手には、遠い台所のぬくもりが宿っていた。
あやのが小さく呟く。
「……帰らなくていいの。でも、帰りたいって思える場所が、あるってだけで……」
その声は、冬のパリに落ちる光よりも、あたたかかった。




