第九十七章 音が目覚める日
建築は、完成した。
ラップランドの凍土の中に立ち上がったその構造体は、
天に向かってねじれるような螺旋の吹き抜けをもち、
その内部には風を導く無数の導管と音の受容層が折り重なる。
名前はない。
司郎がそれを嫌ったからだった。
「名前をつけるとね、終わっちゃうのよ。
あたしがつくるのは、あくまで始まりの装置だから」
初期の観測員と関係者だけが集まった、極小の完成式典。
招待客用の椅子は雪に沈み、焚き火が風にゆれる。
あやの、司郎、梶原、ヘイリー、ユハ、そして現地の小さな少年と祖母。
「……今日、音が鳴るかどうかはわからない」
ユハが呟いた。
「湿度と気温が揃って、風の向きが吹き抜けと一致して、氷が正しく共振したときだけ。
その一瞬にだけ、建築が“声を返す”んだ」
ヘイリーが笑う。
「つまり、奇跡待ちってわけか。詩人の発明だな、これは」
「そうよ。実務じゃなくて、祈りみたいなもんよ」
司郎が湯気の立つマグカップを片手に応じる。
あやのはひとり、構造体の中心──再起動チャンバーの前に立っていた。
彼女のハミングは、すでに中空の氷層に“沈められて”いる。
それが風により、温度により、響きとして返る瞬間を、待っている。
そのとき──
「……ぅ……」
誰かが、小さく息を呑んだ。
風向きが変わった。
氷層の奥、導管の中。
沈黙が、一点からほどけていく。
──ふ、と。
あやののハミングが、“空間から鳴った”。
彼女自身の声ではなかった。
あやのが託した声が、建築を通して“別の命”として鳴ったのだ。
最初に音を聴いたのは、あの少年だった。
「……ねぇ、この歌……」
祖母が、少年を抱きしめながら涙をこぼす。
「あなたの母さんが、小さいとき、よく歌ってくれた歌に……とても似てる」
司郎は、静かに背を向けて言った。
「いい音ね。誰かの声に似て、でも、もう誰の声でもない」
それは、
贈られ、忘れられ、埋もれ、また生まれた音だった。
贈音の建築は、この一瞬のために在った。
そしてそれは──
これからまた、数年、数十年、もしかしたら百年後、
誰かの前で再び「目覚める」。
あやのは、そっと目を閉じた。
(ありがとう。呼んでくれて)
誰にとは言えないその言葉が、風に乗っていった。




