第九十六章 生を贈る設計
「──問題は“誰の音を贈るか”よ」
司郎の言葉が、設計会議に静かに落ちた。
設計は進み、音響導管の形状、凍土の層の組成、空洞共鳴の微調整など、具体的な仕様が固まりつつあった。
だが、中心に据える“贈音”が未定だった。
「そもそも、音楽家や民族研究者のための建築じゃないわ。“ここで生きて、声を埋めて、忘れられた人”の音でなきゃ意味がない」
ヘイリーが腕を組む。
「でもさ、それをどう掘り出すの? 誰も覚えてない音って、どうすれば……」
すると、あやのがぽつりと言った。
「……知ってるかもしれない。
声は、毎晩、私に返ってくるんです。決まった時間に、同じ場所で。眠っていた誰かが、“もう一度だけ、贈りたがっている”気がするんです」
ユハが息を呑む。
「まさか……あの声は……」
あやのは頷く。
「記録されなかった贈音。届かなかったはずの“最後の音”」
その夜、あやのは録音機材を持って再び凹地へ向かった。
月は雲に隠れ、風の音だけがやけに大きく響いている。
録音を開始。
しばらくは何も聴こえない。だが──
「……この声を……
誰か……届いて……」
今度ははっきりと聴こえた。女性の声。
言葉にならないほど細く、けれど確実に“託して”いた。
(……これは、誰かの別れだ)
あやのは静かにマイクのスイッチを切った。
そして、そっと口を開いた。
「受け取ります。あなたの音、わたしが、贈りなおします」
その瞬間、空気が震えた。
風が止まり、雪が音を立てて落ちた。
氷の奥から、短く、しかし確かに──応えるような音の跳ね返りがあった。
翌朝。あやのは司郎にデータを渡した。
「……ちょっと待った」
司郎が、スケッチブックに線を引きかけた手を止めた。
あやのが録音を渡し、「これは声の墓だ」と言ったそのとき。
その場の空気が、音もなく変わる。
「アンタの気持ちはわかる。でも、あたしは建築を“墓”にするために設計してるんじゃないのよ」
声はいつになく静かで、はっきりとした拒絶だった。
「“贈音”が託されたとしても、それを埋めるって行為は、あたしには耐えられないわ。誰かの最後の声を閉じ込めるんじゃなくて、その声を“生かす場所”を建てるべきなのよ」
ユハが口を挟む。
「だが司郎……この土地では、記憶を埋めることでしか祈れなかった人々もいる。贈音とは、失われたものを弔う文化だ」
「いいわよ、それも理解してる。でもあたしたちは違う。ここに建てるのは“記憶の倉庫”でも“神殿”でもなく、**“再起動する音の装置”**なの」
あやのが、ゆっくりと目を上げた。
「……再起動?」
司郎はにやりと笑った。
「風の流れ、雪の厚み、気温と湿度。すべてが整ったある一瞬に、“誰かが贈った音”がふたたび世界に息をする構造──それがあたしの建築よ」
梶原が、試作中の共鳴管を手にして言った。
「じゃあ、建築全体が“蘇る音”のために準備された装置になる?」
「そう。弔うんじゃなくて、いつか“また会う”ために、音を預かるの」
その言葉に、あやのの胸の奥に何かが灯った。
(……そうだ。わたしも……声を忘れたいんじゃなかった。もう一度、届く日が来てほしいって思ってた)
それから設計は一気に進み、構造はより複雑に、そして未来への意志を内包した形になっていった。
吹き抜けの上には風を受けて鳴る自然共鳴器
核心部には、外気条件が揃った時だけ音を反射する**“再起動チャンバー”**
そして、そのチャンバーには“誰かの声”ではなく、**誰もが持ち得る「届かなかった言葉たち」**を象徴するハミングが記録されることになった
「ねぇ、あやの。あんたの声でいいわ。あれは“誰か”を想った、誰にも届かないままの歌。この建築に刻むなら、それしかないと思うの」
あやのは、静かに頷いた。
「はい。“沈黙の返歌”として、ここに贈ります。
……届くといいな、いつか」
その夜、再設計された“贈音の核”に、あやののハミングが吹き込まれた。
それは、誰の声でもなく。
けれど、誰かの胸にきっと響く、生のための音だった。




