第九十五章 空間に音を織る
「“記録”じゃなく、“記憶”のために建てるのよ。そんな建築、聞いたことある?」
司郎は設計台の前に立ち、あやのたちを見回した。
仮設ドーム内に集まるのは、あやの、梶原、ヘイリー、ユハ。それに、フィンランド工科大学から合流した若手助手のラウラ。全員、極寒仕様の毛布にくるまりながら図面を囲んでいた。
司郎のスケッチには、中央に螺旋状の吹き抜け。
その内壁にそって、複雑に交差する幾何学的な音導管──まるで巨大な**「音の巣」**のようだった。
「この中心に、“贈音”の核を据えるわ。特定の風向、時間、湿度、気温……それらが全て揃ったとき、一度だけ、音が自動再生される仕掛け。電気は使わない。自然がトリガーなの」
ヘイリーが手を挙げる。
「ってことは、実際に音が聴こえるかどうかは運次第?」
「そうよ。聴くための建築じゃないの。“音を託す”ための容れ物なの。だから建材も、鳴らすためじゃなく、“記憶するため”の素材を使うわ」
ユハが小さく呟いた。
「それは……まるで、時間そのものに手紙を埋めるような建築だ」
あやのは、スケッチの中心点を見つめていた。
風が通り抜け、空気が凍る寸前に、そこだけ温度を保つ“静寂の核”。
そのとき──昨夜、耳元で感じたあの呼吸の記憶がよみがえる。
(誰かが、答えようとしていた。
……それとも、応えてほしかったのかな)
現場では建材の試作が始まっていた。
梶原は、氷と土と植物の繊維を圧縮して音響伝導体を作っている。
氷と木と泥炭層を層状に組み合わせることで、わずかな風の振動を拾い、蓄える構造体が試されていた。
「普通の建材なら、音が跳ね返る。でもこの素材は……音が沈む」
あやのが手で触れて言う。
「まるで、“聞く側の沈黙”を模してるみたい」
「ふふ。アンタたち、ずいぶん詩的になってきたわね」
司郎は笑いながらも図面に手を止めなかった。
その夜。
あやのは、建材のサンプルを抱えたまま、再びあの“音の抜ける凹地”へ向かった。
無意識だった。
けれど、何かが“呼んでいる”と感じた。
雪の上に立ち、耳を澄ます。
風。氷のきしみ。木々の遠いざわめき。──そして、また。
「……ぁ……」
たしかに、短く、呼ばれた気がした。
(……この声は、わたしを呼んでいる?
それとも、わたしが呼ばれたいの?)
あやのの目が細められたとき、足元の雪が──微かに音を奏でた。
凍結した地面の下、素材の層が共鳴し、一瞬だけ音が生まれた。
それは、“贈音”が返ってきた瞬間だった。




