第九十四章 贈音(おくね)の道
翌朝、氷原に仮設した調査テントの中。
あやのは、録音した“消えた旋律”を何度も再現しようとしていた。
だが──音は毎回、少しだけ違う。どれも「似ている」が、同じではない。
「……おかしい。再現できないんです」
と、あやのはヘッドフォンを外す。
「それって、物理的に?」とヘイリーが尋ねる。
「いえ、感覚の記憶だけがあって、再現の“芯”がない。まるで……誰かの気持ちだけが届いて、肝心の旋律の骨格が消えてるみたいで」
「情緒だけ先に来ちゃったパターンか。あるわね、失恋ソングとかに」
「それとこれは違うと思います……」
そこへユハが、ひとつの古びた木箱を持ってきた。
北部サーミの資料館から借り出した、“口伝音の記録品”だ。
「これは“joik”と呼ばれる、サーミの古い歌。名前を持たない旋律で、誰かのこと、どこかのこと、何かの感情を“歌う”だけのもの。詞がなく、メロディも即興に近い。でも──“その人だけの声”として残される」
あやのが、そっと木箱の留め具を外すと、中には
羊皮紙に模様のように描かれた音の線刻があった。
「旋律じゃない……振動の記録?」
ユハが頷く。
「それは“贈音”と呼ばれる形式。この土地では、歌うこと=“音を贈る”行為だった。言葉を記さず、旋律も残さない。ただ“音の気配”だけを、未来へ送る」
司郎が珍しく静かに言った。
「……つまり、この地の“建築”は、録音でも楽譜でもなく、“空間そのものに音を贈る”ための容器なのね」
「そう。“空間が受け取る”んです。聞き手がいなくても、いつか誰かが耳を傾けると信じて」
その言葉に、あやのの胸が少し震えた。
(……私の歌も、どこかで、誰かのもとに届くのかな)
その夜、仮設テントの中で。
あやのは一人、息を吐き、贈音の儀に倣ったハミングを始めた。
旋律ではない。
ただ、想いのままに、ひと息ずつ、重ねていく。
気温は氷点下30度。音は空気に乗るだけでなく、氷に染みていく。
そのとき、あやのの背後で、誰かが微かに呼吸する音がした。
振り返っても、誰もいない。
だが──雪の下の音響センサーが、震えるように数値を弾いた。
「……受信、した?」
外では風が、あやのの旋律を追うように吹いていた。
まるでそれを、“記録”するかのように。




