第九十三章 眠る声に触れる
その日、気温はマイナス28度。
空は青白く、雪面は無音のまま光を跳ね返していた。
拠点の南、標高差のある凹地に、地形学的な“音のくぼみ”が存在していた。
雪の反射と氷の密度によって、「音が抜け落ちる領域」。あやのはそこに録音機材を並べ、手書きの音波図を広げていた。
ユハがそばで見守る。
「……このあたりは、昔“音を埋める丘”と呼ばれていた。
正式な記録はない。サーミの古い語り部だけが、そこに声を埋めたという」
あやのは頷き、風の音を遮るようにマイクを雪に突き刺す。
「──誰かが語った言葉は、忘れられてしまっても
声という“痕跡”は、この地に残るかもしれません」
録音を開始する。
静寂。
風。
雪が鳴る。
やがて──
「……ぇ……ぃ……」
誰かの、囁くような声が、マイクのレベルメーターを揺らした。
ユハが息を呑む。
「今、聴こえたか?」
「はい。明確に、“音源不明の声”です。人間の……女性の声」
録音を巻き戻す。
だが、声は入っていない。
「……消えた……?」
何度巻き戻しても、ノイズしか再生されない。
ユハが低く呟く。
「ここの氷は、たまに……“音を返す”代わりに、“保存しない”ことがある。つまり、一度きりの音なんだ」
あやのは少し黙り、そっと地面に手を置いた。
掌から、骨の奥へ沈むような感覚。
音ではなく、何かの“記憶”が微かに震えている。
ひとり分の、深い孤独と、祈るような気配。
──そして、微かなハミング。
(……この旋律……)
あやのは、それが即興のものでないことに気づいた。
それは、はるか昔──ニューヨークでグレイマンが一度だけ記録したという“消えた民族旋律”と、極めてよく似ていた。
「ユハさん。この土地で、外部の音楽を聴いた人はいますか?」
「いや。むしろこの地の人々は、外の音を忌避してきた。
音楽は“持ち込まれないもの”とされている。だから……その旋律は、おかしい」
あやのは静かに言った。
「じゃあ、誰が……どこで聴いたんだろう。
あるいは……“誰に、聴かせたかった”んだろう」
彼女の胸に、かすかな震えが生まれていた。
音は記録できない。声は、戻らない。
けれど確かにそこに“存在した”という手触りだけが、手のひらに残っていた。
風がまた、ひと吹き。
雪面に、何か文字のような痕跡が浮かぶ。
(歌……の、記録……?)
あやのは立ち上がり、司郎のもとへ走った。
「司郎さん。ここ、ただの記録の地じゃない。
誰かが“音を未来へ送ろうとした場所”かもしれません」
司郎はマグカップ片手に眉をひそめた。
「未来に、音を贈る……? あら、それロマンチックじゃない。なら、あたしたちの仕事は──」
「受け取ること、ですね」
──“音の贈り物”を、確かに拾い上げること。
それがこの氷の地で、司郎デザインに託された、本当の役割だったのかもしれない。




