第九十二章 雪の下に、音は息づく
設営初日。
極地の光は一日中低く、影を伸ばし続けていた。
梶原は厚手の防寒服のまま、ドーム型シェルターを組み立てていた。
氷点下の中での作業は、細かい金具を扱うだけでも神経がすり減る。それでも彼は、無言のまま確実にこなしていく。
「ネジが手にくっつく……手袋の中に人生の悔いが溜まってる気がする……」
ヘイリーが凍えた声で訴えながら、電熱ヒーター付きのジャケットを頼りに配線を引いていた。
「大丈夫。あなたの悔いは熱に変わるわ」
司郎がややハイテンションで叫び、指揮を飛ばす。
あやのは別動で、ユハとともに“音の採集地”の下見に向かっていた。
雪を踏む音。風の鳴き声。氷がきしむ音。──そのすべてが、この土地に記憶されていた。
「……このあたりには昔、“音を埋める儀式”があったらしい」
ユハが低い声で言った。
「人が亡くなったとき、その人の最後に聴いた音を、凍土の下に“沈める”。祈りとか記録というより……音を眠らせる行為だったらしい」
「音を埋める……」
あやのは、手持ちのハンドマイクをそっと雪に近づけた。
そして、小さく歌を口ずさむ。呼吸と同じ速さで。
「──雪の下に、眠っていてね
こわくないよ、音は私が聴くから」
それは誰に届くでもないハミングだったが、
ユハは立ち止まり、目を細めてその音に耳を澄ませた。
「……君の声は、奇妙だ。風と混ざると“二重に響く”ように聴こえる」
あやのは何も答えず、静かに機材をしまった。
拠点へ戻ると、司郎が設営途中のテントにスピーカーを仮設し、音響反響のテストを始めていた。
「ヘイリー、例の“反射ハーモニクス”、あれ再現できる!? 低温下で!」
「やってみるけど、こっちのチューニングチップ、もうガリガリに凍ってるわよ!」
「いいのよ、失敗もデータになるんだから! ほら! あやの、アンタもこの音、聴いてみなさい!」
テント内に流れた音は、予想よりも遥かに澄んでいた。
が──どこか、“音が戻ってこない”箇所がある。
空間にぽっかり空いた沈黙。
まるで、そこだけ「音が吸い込まれている」ような、不自然な沈黙。
梶原が、測定機器の数値を覗き込んで言った。
「……ここだけ、音響残響が異常に低い。異常というか、“記録されない”んだ」
司郎が目を細めた。
「地形か、磁場か、それとも……。まぁいいわ、面白くなってきた」
あやのはその“沈黙のポケット”に近づいて、小さく囁いた。
「──ここに、誰か……いますか?」
何も返らない。ただ、風が一度だけ、逆方向に吹いた。
この土地は、何かを眠らせている。
音か、記憶か、それとも別の──言葉にならない何かを。




