第九十章 氷と記憶のオルガン
司郎デザインパリ拠点に今日も世界から無理難題が届く。
「──新案件よ。行き先はフィンランドの北端、ラップランド圏の境界線近く。場所は“音の永久凍土”」
司郎が立てかけた地図を指差しながらそう言った。
詰所には一瞬、気温が下がったような沈黙が流れる。
「……永久凍土って、建てられるんですか?」
あやのが口を開く。
「建てるのよ。依頼は、“絶滅しつつある民族音声と自然音を記録し、そのまま空間ごと未来へ保存する”というコンセプト建築。極寒の地に音のアーカイブを埋めるのよ。しかも、再生機構はすべて電力不使用」
ヘイリーが手を挙げた。
「え、保存と再生をどうすんの? 氷の穴にボイスレコーダー突っ込むとかそういう……?」
「違うわよバカ!! 物理構造と空間音響だけで“再生”させるの。いわゆる“エコー・メモリアル構造”ってやつ。音を素材に彫刻するのよォ!」
梶原が静かに地図をのぞき込む。
「……素材は? 地盤は氷と石だけなら、施工限界が厳しい」
「そこが天才施工班の出番よォ!! しかも今回は、現地のサーミ族の協力と、気象庁の永久凍土観測データを組み合わせた“自然依存設計”になるわ」
「なんかもう……気圧と風と氷と相談しながら家建てるみたいですね……」
司郎は満足げに頷く。
「クライアントは北欧サステナビリティ協議会と、複数の博物館・大学。予算は無尽蔵とは言わないけど、“変態的に実験的”なことは許されるわ」
あやのは少し黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……“消えゆく音”のための、最後の劇場ね」
「そうよ。風が奏で、氷が記憶し、未来の誰かが偶然“聴く”かもしれない建築。使われることより、忘れられないことが目的なの」
ヘイリーが手を挙げる。
「寒さ対策の話、どの段階で聞けます? 毛布何枚持ってけばいい?」
「8枚までね。9枚目は預け荷物超過料金取られるから」
「現実的!」
そんなこんなで、旅の準備が始まる。
あやのは窓辺で、持参用のフィールドマイクを点検していた。
外では風が吹いている。その音に、ふと誰かの囁きが混じったような気がした。
(本当に……この地球は、いろんな音でできている)
そしてまた、ひとつの音を建てに行く。
氷の地に。風の彼方へ。
それが、次の「世界案件」──**“オルガン・オブ・シレンス”計画**の始まりだった。




