第八十八章 それでも朝は来る
風の聖堂・作業詰所。
朝の日差しが入り込み、コーヒーの香りと紙の音だけが室内に漂っていた。
司郎は床に座り込んで、スケッチブックにペンを走らせている。時折「このパース納得いかないわ」と独り言を漏らしながら、周囲のスタッフを威圧している。
ヘイリーは横でギターをポロポロいじっていたが、司郎の不機嫌オーラに影響されて、やや不協和音。
「……あやの、まだ帰らないの?」
「昨日の夜には戻るって言ってたけど……」
「どこ寄り道してんのよ。パリよ? 寄り道したらアーティストになっちゃうのよ?」
「もともとアーティストでしょ、あの子……」
司郎が深いため息をついたときだった。
ガチャ、と扉が開いた。
「……ただいま戻りました」
あやのが、少しだけ疲れた笑顔で立っていた。
その後ろには、黙って荷物を運ぶ梶原。手には鍋と、でかい保冷バッグ。
数秒の静寂。
「──あんたたちィ!! 心配させるにも限度があるのよ!!」
司郎がスケッチブックをバンッと閉じて立ち上がる。
「突然いなくなったら現場がどうなると思ってんの!? ねえ!? 誰が朝食作るの!? あたしよ!?!!」
「お帰りなさい、あやの……それと、ナイス鍋持ち」
とヘイリーが梶原にサムズアップ。
「すみません……いろいろ、整理がしたくて……」
「ふん。整理? あたしに言わせりゃ、それ“若さゆえのエスケープ”ってやつよ。あたしも若いころあったわ。ボイラー室に3日こもったこと」
「それ完全に逃避じゃないですか……」
あやのはそっとテーブルに手作りのパンを並べた。梶原は煮込み鍋を開ける。
たちまち香ばしい匂いが詰所を満たす。
「……許す」
「早ッ!?」
「というか、もはや食卓に手を合わせそう……」
司郎が鍋の蓋を覗きこむ。
「なによこの艶っぽい煮込みは。浮気してきたの?」
「してません」
「じゃあ、なんで髪の毛ツヤツヤしてんのよォ!!」
あやのが照れたように笑う。その横で、梶原が静かに言った。
「……ちゃんと食べて、ちゃんと寝ただけです」
「……くぅぅ……最高の報告……!!」
司郎が泣きそうな声で叫ぶ。
食卓が整いはじめると、自然と笑い声が戻ってきた。
誰も、甲斐の話はしない。誰も、詮索しない。
ただ「帰ってきたね」と、香りと温かさで迎えるのが、ここでの流儀だった。
「ところであんたたち、そろそろハッキリさせたら? “気まずい同居人”じゃないんだから」
「な、なんの話ですか……?」
「ま、若い子には時間がいるのよね。いいの、待つわ。あたし、無限に催促するけど」
あやのは笑ってうつむいた。
梶原は横で静かに、味見のスプーンを洗っていた。




