第十八章 出るビルの朝
ビルの壁が、朝の光を吸い込み始めると、内部も静かに目を覚ます。
ここは東京の片隅、幽霊が出ると噂されたレンガ造りの四階建て――通称「出るビル」。
今では、少し風変わりな建築事務所「司郎デザイン」の拠点となっていた。
三階、真木あやのの部屋。
東向きの窓からやわらかな日差しが差し込む。
真珠色の髪がその光を集めて、小さな羽毛のようにきらめいていた。
あやのは朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、軽く伸びをした。
前夜から仕込んでおいた炊飯器のタイマーが鳴ると、彼女はふわふわの部屋着のまま階段を降りる。
一階のキッチンにはすでにもう一人。
梶原國護が、黙々と小松菜を刻んでいた。
背中は大きく、無言のままでも空気を整えるような静けさがあった。
「おはよう、梶くん」
「……ん」
彼の返事は短いが、包丁のリズムがほんの少し柔らかくなる。
「ねぇ、あやのォーッ! お湯沸いてる!? 髭剃りの電池また死んだのよッ!」
怒鳴るような声と共に、階段を“ズズズンッ”と駆け上がる音。
それは司郎正臣の「朝の足音」だった。
「司郎さん、髭剃りじゃなくてそれ、電動カッターですよ」
「えッ!? アタシ一週間、これで顎いじめてたの!?」
三階の廊下には、寝癖もそのままの坊主頭と、黒縁眼鏡に朝の光が反射する司郎が立っていた。
手にはなぜか現場用のカッター。
パジャマの上から作業エプロン。妙に完成されたスタイル。
「……お湯、あります。ドリップもしますね」
「やっぱりアタシ、あんたがいないと死ぬのよねぇ……」
司郎はすごすごと自室に引っ込むと、数秒後、なぜか鼻歌を歌いながら出てきた。
その手には、茶色い古びたスピーカー。どうやら配線を直すらしい。
「うふん。あやのの声で一日が始まるって幸せよねぇ……って、梶原、アンタまた米三合炊いてるの!?」
「……足りないと困る」
「……まぁ、そうね。あの子(幽霊)たちもよく食べるし」
リビングのテーブルには、梶原が素早く並べた三人分の朝ご飯。
炊きたてのご飯、だしの効いた味噌汁、焼いた鮭、卵焼き、小鉢のひじき煮。
手際はプロ顔負けだが、すべては「生きるために覚えた」動作だった。
三人が揃って座ると、自然と静けさが落ち着いた。
そして。
「いただきます」
声の主はあやのだった。
それに続いて、梶原が小さくうなずき、司郎もゆっくり手を合わせた。
「……いただきます」
それだけの言葉に、ちゃんと意味が宿る。
誰かが作ったものを、誰かと一緒に食べる。
このビルでの暮らしは、そういうささやかなリズムで満たされていた。
「ねえ、あやの。今日、どこ行くの?」
「今日は音を拾いに……下町のほうまで行ってみようと思います」
「やっぱり、あんた変な子よねぇ……でも、そういうの、建築に効くのよ」
「ありがとうございます、司郎さん」
あやのが箸をすすめる傍ら、梶原は静かに彼女の茶碗にご飯をおかわりしていた。
東京の一日が、こうして静かに始まる。