第八十七章 風が眠る夜
夜の帳が降りるころ、モンマルトルの丘は静まり返っていた。
パリの街灯が点りはじめ、遠くからはアコーディオンの音が微かに届く。
修道院跡の一室。
かつて祈りが捧げられていたその空間には、今はシンプルな寝具と、小さなキッチンだけが置かれていた。
その場所に、ふたり分の影があった。
あやのは、梶原が用意したスープを口にしていた。
ポトフだった。ごろりとした野菜と肉。塩気は控えめで、やさしい味がした。
「……やっぱり、梶くんの料理は落ち着くわ」
あやのがそう呟くと、梶原は「そっか」とだけ応えた。
それ以上、何も言わない。彼は昔からそうだった。
スプーンを置く音、カップを持つ手の動き、それらの静けさに包まれながら、あやのはふと窓の外に目を向けた。
「パリの風は、少し冷たいね」
「夏の終わりは、いつもこうだよ」
その言葉には、彼女の髪をそっと撫でるような穏やかさがあった。
しばらくして、あやのは立ち上がり、そっと自分のスカーフを外した。
そのまま、梶原の隣に座る。
「……黙っててもいい?」
「うん」
そう答えた梶原の肩にもたれかかるようにして、あやのはそっと目を閉じた。
鼓動の音が聞こえる。静かな、安定したリズム。
それは建築でも音楽でもなく、「生きてる人間の音」だった。
「……風ってさ」
あやのがぽつりと言った。
「どこから来て、どこへ行くのか、誰も知らない。掴もうとしたらすり抜けて、聴こうとしたら遠ざかる。でもね、きっと、本当に大事なのは……その風の中で、誰といたいか、なのかもしれない」
梶原は、彼女の言葉に頷いた。
「俺は、どこにも行かないよ。ここにいる。ずっと、あやのの隣に」
あやのは彼の胸に顔を埋める。
窓の外には夜風がそっと吹いていた。
それはもう、別れの風ではなかった。
灯りがひとつ、またひとつと落ちていく。
静かな夜が、ふたりを包みこんだ。