第八十六章 ただいまの音
風の聖堂のテラス。
西陽が石の床を淡く照らし、遠くではパリの街がゆっくりと色を変えていく。
扉の向こうから、足音がした。
あやのは、振り返ることなく、その気配を感じていた。
「……帰ってきたんだな」
その声は低く、あたたかくて、言葉の背後にどこまでも広がる静けさを伴っていた。
梶原國護だった。
作業着を脱ぎ、シャツの袖をまくったままの姿。あやのを見ることもなく、彼はテーブルに用意していたカップにコーヒーを注ぎ、そのまま自分の分も並べて置いた。
あやのは、しばらく何も言わなかった。
ただ風を見つめていた。
「甲斐くん、来てたの」
「うん」
「……もう、行ったわ」
「うん」
二人のあいだには、それ以上の言葉はいらなかった。
コーヒーの湯気が細く立ち上り、それが風に揺れるたび、あやのの心の奥に張っていた膜が、ふっと緩む。
ようやく、彼女は椅子に腰をおろした。
その背に、小さく安堵の吐息がこぼれる。
梶原は言った。
「言葉にできるなら、俺が欲しかったのは……『さよなら』より、『ただいま』だったんだと思う」
そのひとことに、あやのの目が揺れた。
涙ではなかった。ただ、心がほどけた音だった。
「……じゃあ、言うね」
彼女は微笑んで、まっすぐに彼を見た。
「ただいま、梶くん」
梶原は頷き、小さく笑った。
その笑みは、安堵でも勝利でもない。ただ、「待っていた人間の表情」だった。
ふたりは黙って、カップを手に取った。
どちらも言葉は少ない。でも、満ちていた。
風の音だけが、ふたりの間を吹き抜けていく。
それは、さよならの風ではなかった。これから先を一緒に歩く者たちを、そっと押す、追い風だった。