第八十五章 風は過ぎて
パリの午後、風の聖堂の中庭は、六月の空に吹く静かな風を受けていた。
あやのはその場に一人で立ち、そっとスカーフを結び直す。そこにはもう、現場の喧騒も、歓声も、建築家たちの指示もなかった。すべてが整えられた、あとの静寂。
石畳を踏む足音がした。振り向くと、甲斐大和がいた。黒いロングコートの裾が風に揺れている。
「……終わったな、プロジェクト」
彼はあやののすぐそばまで来て、石壁に背を預けるようにして立った。
あやのは頷いた。
「ええ。あとは、風が教えてくれるわ。正しかったか、どうか」
甲斐は少し笑った。「君らしいな」
その言葉のあとに、沈黙が訪れる。
鳥のさえずりと、どこかの遠くで鳴る鐘の音だけが、ふたりのあいだを流れた。
あやのは口を開いた。「甲斐くん……あなたがここに来てくれたこと、私は――」
「俺は、君に伝えたかっただけだ」
あやのの言葉を遮るように、甲斐はまっすぐに彼女を見た。その眼差しには、もはや少年のような未練はなかった。
「君が、あの夜、俺の前から消えた理由も、追いつけなかった理由も。今なら、わかる気がする。君は……俺が守るべき何かじゃなかった。ずっと、君自身の道を歩いてたんだな」
あやのは言葉を失った。
彼の言葉には、苦さも怒りもなかった。ただ、潔い、終わりの美しさだけがあった。
「本当は……もっと近くで見たかった。風を聴く君の姿を。でも、それは俺のわがままだったのかもしれないな」
そう言って、甲斐はあやのの前髪にそっと手を伸ばす仕草をした。けれど、触れることはなかった。
「さよならだ、真木あやの。風がまた、どこかで君を運んでくれることを祈ってるよ」
あやのは小さく、でも確かに首を振った。
「さよならじゃないわ。きっと、またどこかで」
甲斐は一瞬、目を細めて――それから振り返らずに歩き出した。
あやのは、彼の背を見送った。石畳の先、門の影にその姿が吸い込まれていく。
風がふたたび吹いた。
誰かの名残を運ぶように。
彼女は目を閉じ、音のない祈りを胸に呟く。
その声は、風に溶けて、誰にも届かないまま、空へと消えていった。




